田尾安志、楽天初代監督オファーに「地獄に落とさないで」…それでも引き受けたワケ

日刊SPA!

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは?天才打者と評された男が選んだ、新球団初代監督というポスト。田尾安志のキャリアを形作ってきた信念に迫る。

◆前途多難と知りながら引き受けた楽天初代監督

“もし”という接続詞をつけての質問は、勝負師にとってタブーとされている。孤高の鬼才として本連載でも取り上げた門田博光は「“もし”の話はわからん」と一刀両断。他のアスリートも同様の反応が多い。日々結果を追い求めて鍛錬しているのに、“たられば”の話ほど陳腐なものはない。だが、この男だけは“もし”をつけて語らずにはいられない。

田尾安志。中日、西武、阪神の主力打者として活躍しただけでなく、東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督を務めた男である。

「今となっては、あの環境がさほど苦にならなかったのが自信ですね。“あの1年”を経て、自分がこんなに図太い人間だったんだと改めて知りましたよ」

◆監督のオファーに「軽いなぁ」

現役時代と変わらず、田尾は爽やかに語る。言わずもがな“あの1年”とは楽天の初代監督を務めた’05年のことである。最初は無理にそう繕っているのかと思ったが、時間を重ねて話を聞くごとにこれが田尾の本心だとわかった。

’04年の秋口に、3年契約で新設球団である楽天の監督に就任。プロ野球界にとって半世紀ぶりの新球団設立ということもあり、’04年オフから翌年の開幕前まで、田尾が取り上げられない日がなかったほどメディアに出まくった。だが、いざ蓋を開けると38勝97敗という成績で断トツの最下位。この責任を問われ、最終戦を待たずして田尾は解任を告げられる。3年契約だったにもかかわらず、わずか1年での解任。これが意味するものとは何か……。

「もともとマーティ(・キーナート、楽天の初代GM)と球団代表の米田(純)さんと食事をしたときに、『球団を持つことになったんですが、どなたか監督としていい人材はいないでしょうか』と相談を受けたのが監督就任のきっかけです。そこからいろんな人の名前を挙げて良い面と悪い面を説明していくと、最終的に『監督やってみませんか?』と。最初から僕にやらせようと思っていたんでしょうけど、“軽いなぁ”というのが率直な感想でした」

その席で田尾は、2人にこう語ったという。

◆半世紀ぶりに産声を上げた新球団

「確実に最下位になる球団の監督がどうなるか知っていますか? 周囲からの評価はガタ落ちになり、否が応にでも厳しい立場に晒されます。今の状態で満足しているので、地獄に落とさないでください」

それでも、最終的に田尾は地獄の一丁目への片道切符と承知の上で楽天の監督を引き受ける。それは、新設球団が成功するか否かが今後の球界にとって大きなポイントになるという確信と、「これはチャンスだ」と言ってくれた家族の協力があったからこそだった。

半世紀ぶりに産声を上げた新球団。その船出はドラマチックであり、ある意味予想通りでもあった。

開幕戦こそエース岩隈の力投により3対1で勝利したが、第2戦で0対26という歴史的大敗。そこからチームは4連敗を喫し、浮上の芽を摑めないままシーズンを過ごすことになる。

◆中日時代の同僚が語る逸話

「球団立ち上げのときに、エクスパンション・ドラフト(新規参入チームの戦力確保のために行う既存チーム所属選手の分配システム)をやると聞いていたのに、いつの間にか話は立ち消え。全球団から2人ずつ選手を出してもらうという話も、なくなってしまいました。やっぱり、あれだけ弱いチームをつくってしまうと野球界にとってもダメですよ。最初の段階で、もう少し整備してほしかったですね」

結果、オリックスと楽天で分配ドラフトを行い、オリックスがまず25人の選手をプロテクト。それ以外の82選手を両チームで分け合うことになったが、一流と呼べる選手は残っていなかった。

最初にNPB側が戦力確保策を示唆しておきながら立ち消えとなったことは、田尾にとって堪え難かったに違いない。そもそも田尾とは自分の意見をはっきりと言う一本気な男だった。中日時代の同僚、宇野勝は笑みを浮かべながらこんな逸話を語ってくれた。

「近藤貞雄監督の時代、何年も前のことなのに『選手が門限を破ってラーメンを食べている』と中日スポーツに書かれたんです。それで北海道遠征では外出が禁止に。そしたら田尾さんが『普段、新聞なんか気にするなって言っている近藤さんが一番気にしている。こういうときだからこそ外出するんだ!』と選手を引き連れて堂々と街に出ていきました」

◆在籍した9年間を振り返る

とにかく、田尾は理不尽なことには徹底して立ち向かい、筋を通す性格だった。そのせいか、現役時代にフロントと衝突することも少なくなかった。田尾が中日の選手会長になって選手側の要求を臆せず言うようになると、’85年1月の自主トレ中に西武へトレードに出された。

「当時の代表とは合わなかったんですよね。名古屋球場の駐車場やロッカーの改築など、細かいことまで選手会長として進言していました。あまりに言いすぎるから、出されちゃいましたね」

あっけらかんとそう振り返るが、9年間在籍した中日では、爽やかなルックスに加えリーグを代表する巧打者で押しも押されもせぬ全国区のスター選手だった。トレードで出される直近の3年間はすべてシーズン最多安打を放ち、計501安打。田尾以降で3年連続最多安打を放っているのは、イチローと秋山翔吾(レッズ)の2人しかいない。中日ファンなら、誰もが一度は思ったものだ。

「もし田尾がずっと中日にいたら、楽に2000本は打てただろうに……」。

◆監督とオーナーの間に生じ始めるズレ

話を楽天時代に戻そう。田尾はフロント陣の印象をこう述懐する。

「彼らはまだ40代そこそこで、お金儲けは上手なんでしょうけど若造感はありましたよ。オーナーといっても『球団の半分はファンのものだ』という気持ちを持たないと、進むべき方向とは違う方向へ行ってしまう可能性が高い。若いオーナーだし、お金を出しているから色々と言いたくなる気持ちもわかる。でも僕はまず、オーナーにビジネスとしてだけでなく野球を好きになってほしかった。だから、何かあれば直接言ってほしいとオーナーには言っていたんです。でも、彼から直接連絡がくることはありませんでした」

楽天グループの創業者であり、東北楽天ゴールデンイーグルスの会長兼オーナーでもある三木谷浩史とは、シーズン途中まで良好な関係を築き上げていた。しかし、チームの負けが込んでくると監督・田尾とオーナー・三木谷にズレが生じ始める――。

【田尾安志】

’54年、大阪府出身。同志社大学を経て’75年にドラフト1位で中日ドラゴンズに入団すると、俊足巧打のリードオフマンとして新人王を獲得。’82年には打率.350を記録し、同年から3年連続最多安打に。’85年に西武、’87年に阪神に移籍し、’91年限りで引退

取材・文/松永多佳倫 写真/産経新聞社

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―

【松永多佳倫】

1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)など。現在、小説執筆中

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