【祝・渡辺宙明生誕96年】金属恵比須・高木大地の<青少年のためのプログレ入門>第25回『アニメ・特撮のレジェンド渡辺宙明と対談』~前編~

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金属恵比須・高木大地の<青少年のためのプログレ入門>
第25回『アニメ・特撮のレジェンド渡辺宙明と対談』~前編~
宙明、プログレを語る!


『人造人間キカイダー』『マジンガーZ』『秘密戦隊ゴレンジャー』など、数々の伝説的なアニメ・特撮番組の音楽を担当してきた渡辺宙明。2021年3月からは戦隊ヒーローシリーズ第45作目『機界戦隊ゼンカイジャー』にて、『大戦隊ゴーグルV(ファイブ)』以来39年ぶりに音楽担当に返り咲くということで大ニュースとなった。また、去る6月23日にはCD「渡辺宙明音楽選1 CHUMEI WATANABE 渡辺宙明」もリリースされた。

そんな宙明先生は、1925年8月19日生まれの96歳(当記事掲載日が誕生日)。1925年といえば歴史で必ず習う「治安維持法成立」と「ラジオ開局」の年である。なんと三島由紀夫(1925~1970)と同年生まれ(学年は1つ違い)。プログレ関係では、フランスのエルドンのリーダーであり大学教授のリシャール・ピナスが研究対象としている哲学者ジル・ドゥルーズ(1925~1995)も同年の生まれだ。

大正~昭和~平成~令和を切り抜け、今なお現役として作曲の世界で活動されている宙明先生。55歳差の筆者が、不躾にもゼンリョクゼンカイで突撃し、対談が実現した。筆者が連載している『モノ・マガジン』「狂気の楽器塾」ではその対談を抽出したものを掲載した(7/2号、8/2号)。当連載ではさらにマニアックな内容を掲載していきたい。
(写真提供:モノ・マガジン)
(写真提供:モノ・マガジン)

■宙明先生興味津々! いきなりプログレ対談


渡辺「金属恵比須ってプログレッシヴ・ロックをやられているのですか。珍しいですね。私の周りにはヘヴィ・メタルの人はいましたけれども、プログレッシヴ・ロックはいなかったなぁ」

――プログレをご存知とは恐縮です。

渡辺「プログレッシヴ・ロックはカッチリとした編曲などせずに、やや曖昧な部分は必要なんですか?」

――アレンジは曖昧にしたりする部分もあります。サイケデリック・ミュージックの影響ですね。でも金属恵比須の場合は、メロディに関して曖昧だったり無調性のものは作りません。現代音楽みたいにすると頭に残りにくいと思っています。

渡辺「メロディは調性取れているけれども伴奏のコード(和音)を新しくするのですね」

――はい。金属恵比須に関しては、メロディはプログレッシヴ(=前進的)ではないですね。心に響くようにプリミティヴ(=原始的)な作りを心がけています。まさに渡辺宙明先生がアニメ・特撮音楽で多用されている音階「ペンタトニック・スケール」を基本としている。ところでプログレはお聴きになったことはありますか?

渡辺「息子(現・作曲家の渡辺俊幸氏)が学生時代にロック・ドラムをやっていました。朝起きたら、向こうの部屋でレコードかけながらご飯を食べているんですよ(笑)。その時にいろんなロックが聞こえてきました。『原子心母』というものもありましたね」

――ピンク・フロイドですね。まさしく今日着ているTシャツがそれです!

渡辺「(笑)あれは有名ですね」

――発表は1970年です。宙明先生がロック音楽を取り入れたサウンドで『人造人間 キカイダー』の音楽を担当されたのが1972年。やはり息子さんの聴いていたものからも吸収されているのですか?

渡辺「影響は受けたかもしれませんけれども、私にとってはその頃のロックはわかりにくいものもありましたね」

――先ほどプログレを「曖昧」の要素があるとおっしゃられていましたけれどもそういうことですね。

渡辺「『原子心母』を参考にしたいという気持ちはなかったですね(笑)」

――たしかにわかりにくいですね(笑)。

渡辺「でも曖昧なところがないとプログレッシヴにはなりませんからね」

――面白味がなくなります。

渡辺「広がりが出てくるというイメージ」

――“訳のわからないことをやってるんだぞ!”というフリをした音楽をやらないといけませんからね。プログレというのは。

渡辺「うんうん(大きく納得)」

――プログレ・ファンも納得しないですし。

渡辺「鼻歌で歌えるような歌だと歌謡曲になっちゃいますからね」
(写真提供:モノ・マガジン)
(写真提供:モノ・マガジン)

■アメリカの音楽は禁止! 戦中~戦後の音楽事情


――アニメ・特撮の作曲家として不動の地位を築いていますが、そもそもは映画音楽の作曲家になりたくて音楽業界に入られました。純音楽やクラシックではなく映画音楽。なぜでしょう?

渡辺「何故かクラシックの作曲家にはなりたいとは思わなかったですね。渋い室内楽の音楽を聴いても私にはどうしても良さが感じられませんでした。“こんな作曲はやりたくない!” と。当時の映画業界は全盛期だったからお金が稼げるというのも理由の一つでした」

――音楽との出会いは?

渡辺「小学6年の時にハーモニカを吹く男がいました。休憩時間にちょっと取り出して、“♪ド”をベースとして鳴らしながら“♪ミソ”を“バンバンバン”と鳴らしていたのを聞いて“こんなこともできるんだ”と思い興味を持ちました。すぐに東京の三越の楽器部に行って、教則本も売っていたので一緒に買い、練習を始めました。そして、作曲家になりたいと親父に言ったら、“作曲家になるんだったらハーモニカだけじゃダメじゃないか。やっぱりピアノだろう”と。その時たまたま妹が練習していたピアノがあったんですね。楽譜もすぐに読めるようになりました。でも子供の頃からきちんとした音楽教育を受けていません。作曲家になれるかどうかということで毎日悩んでいましたよ」

――完全な独学なのですね。音楽理論はどこで学びましたか?

渡辺「東京府立三中(現・東京都立両国高校)の音楽の授業です。みんなで歌ったような記憶はなくて、理論の講義しかしませんでした。音階論をしっかり教えてくれました。それが本当に参考になりましたね。ハーモニカと音階論で楽典の基本的なことは覚えてしまいました」

――その頃聴いていた音楽は?

渡辺「クラシックですね。NHKのラジオで毎晩夕方の6時から放送されていた『名曲鑑賞』という番組がありました。毎日聞いてたけれども渋いのが多かったかな」

――レコードも聴いたりしていましたか?

渡辺「聴きました。LPではなくSPだから片面に3分くらいしか入らないものでしたが。トスカーニ指揮のベートーヴェン『英雄』を聴いて“ああいいな”と思って。次にチャイコフスキーの『悲愴』でした」

――戦後はアメリカの音楽が日本に入ってきましたよね。

渡辺「ジャズが入ってきました。日本では和田肇(1908年生まれのジャズピアニスト)が「ブンチャブンチャ」とジャズ・ピアノを弾いていました。当時は映画館でも映画の間に音楽を演奏するということが多く和田さんも弾いていました。その頃は米軍が街を普通に歩いている時代。和田さんが演奏を始めたら前の方に座っている米兵がノってるわけですよ!」

――YMOが初めてヨーロッパ・ツアーをした時に、現地の人がノっているのを見て嬉しかったという話を思い出しました。その時初めてジャズを聴いたのですか?

渡辺「いや、ラジオの進駐軍放送が最初でした。ジャズだけではなくムードミュージックもかかっていて素晴らしい曲がたくさんありました」

――戦争が終わるまで聴いたことのない音楽だったのですよね。

渡辺「アメリカの音楽は禁止でした」

――禁じられていたアメリカ音楽を聴いた時の第一印象は?

渡辺「素晴らしかったですね。クラシックの耳として聴いてみてもいい音楽でした」
(写真提供:モノ・マガジン)
(写真提供:モノ・マガジン)

■宙明先生と高木の共通点


――その後、東京大学に入学されますね。

渡辺「親父からは大学だけは出ておけよと言われたから受験しました。作曲家になれなかった場合の滑り止めとしてですね。その頃、團伊玖磨さん(作曲家、1964年東京オリンピックの開会式などの音楽を担当)にクラシックの和声学を習いました。作曲を習ったのではなく、和声学だけですね」

――文学部哲学科の心理学専攻でしたが、主に何の研究をされていましたか?

渡辺「音響心理学です。実験などをして卒論を一生懸命書きました。一番出来がいいと言われて、大学院に入れと言われました。大学院に入るなんて考えてもいなかったんですけどね。1年通ったところ、家から連絡があって“お前の父が大変だ”と。急病だということで。検査したら癌でした。すでに転移していて手術はできない状態でした」

――実家のある愛知に帰ったのですか。

渡辺「はい。しばらく看病していました。その間も東京と愛知を行ったり来たりして作曲の勉強をしていました。が、夏に亡くなりました。大学院の中退届を出していたので、“そうだ、仕事をしなきゃいけない”と考えました。そこでCBC(中部日本放送)に作曲の仕事をさせてくれないかと売り込みに行きました」

――飛び込みですか?

渡辺「はい。 音楽課の松枝孝治さんが対応してくれましたよ」

――なんという運命の巡り合わせ(笑)。

渡辺「しばらくして台本をくれました。結構仕事が来ましたよ。その松枝さんと原六朗さん(作曲家、代表作は美空ひばり「お祭りマンボ」)が友達でした。原さんがたまたま京都の映画の仕事の帰りにCBCに寄ったんですね。原さんに“東京に出てきなさいよ”と言われて、しばらく考えて東京に行きました」

――これもまた運命の巡り合わせ(笑)。

渡辺「原さんの家の近くに下宿を探して、狭いアパートみたいなところに住んで、毎日のように原さんの家に行って、何となく過ごしていていました。そんなにたくさん仕事がなくて、彼が忙しくて出られない時にお手伝いをしたりしましたよ。原さんはラジオドラマの『サザエさん』ラジオドラマをやっていたのですが、“指揮をやってくれ”と1回だけやったこともあります」

――最初に住まわれたのが杉並区の阿佐ヶ谷ですね。

渡辺「阿佐ヶ谷は駅からそんなに遠くないけれども、畑を通って、竹藪通って、パン屋さんがあって、そこの角を曲がると下宿があったんですね。水道がなくて外にある井戸を使っていました」

――当時、水道が通っていなかったのですか?

渡辺「後でわかってガクッと来ましたよ(笑)」

――不動産屋に騙されたのですか?

渡辺「騙したわけじゃないと思うけど……言わなかったんでしょうね(笑)」

――“音楽は独学”、“旧制府立中学”、“文学部哲学科”、そして“阿佐ヶ谷”と、実は勝手に親近感を覚えておりまして……。

渡辺「どうしてですか?」

――私も作曲をしていますが、ちゃんとした音楽教育を受けていないんです。ピアノ、ドラム、ギターは習いましたが、音楽理論は楽器雑誌の連載や、楽典を読んで学びました。“音楽は独学”という点が1点目。次に宙明先生は旧制府立三中出身ですが、私は府立十中(現:東京都立西高校)です。ここでの音楽の授業が特殊で、シェーンベルクの「十二音技法」の構造を習ったりしました。

渡辺「そりゃすごい(笑)」

――3点目が大学の専攻です。宙明先生は文学部哲学科ですが、私は文学部印度哲学科でした。

渡辺「印度哲学!? すごいですねぇ」

――はい。ただし東京大学ではなく、隣にある東洋大学です(笑)。そして阿佐ヶ谷なのですが、私の出身地なんです。宙明先生が引っ越された頃、私の父がそこで生まれています。父の子供の頃と同じ光景を見ていたと思うと感慨深くて。まさかあの町に竹藪があったとは想像もつきませんでしたが(笑)。

渡辺「竹藪はたくさんありましたよ!」
(写真提供:モノ・マガジン)
(写真提供:モノ・マガジン)

(次回に続く)
取材:2021年4月21日
写真提供:「モノ・マガジン」
<参考文献>
『作曲家 渡辺宙明』渡辺宙明述著、小林淳編 ワイズ出版、2017年
『スーパーアニソン作曲家 渡辺宙明大全』腹猫巻&宙明サウンド研究会著 辰巳出版、2019年

当記事はSPICEの提供記事です。

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