元プロ野球選手初の公認会計士「プロ入りがゴールだったことを後悔している」

日刊SPA!

―[職業 元プロ野球選手]―

◆試験に受かるまで9年間

日本の三大国家資格は、医師、弁護士、公認会計士と呼ばれている。医師国家試験を受けるためには医学部医学科6年制を卒業してなくてはならず、司法試験には法科大学院の課程修了などの受験資格制限がある。しかし公認会計士試験には受験資格制度がない。つまり性別、年齢、学歴に関係なく誰でも受けられるのだ。

それぞれの合格率を見ると、医師国家試験は90%以上と高いが、そもそも大学の医学部に入ること自体超難関であり、高偏差値の強者どもが5、6年生の丸2年間を試験対策のため猛勉強している結果でもある。司法試験は大体25%前後であり、公認会計士試験がおよそ10%強。医師国家試験、司法試験ともに高いハードルの受験資格の規定があるため単純比較はできないのだが、数字だけを見れば公認会計士試験が最も難関であると言えよう。

このような難関国家試験をクリアし公認会計士になったのが、元阪神投手の奥村武博(41歳)だ。元プロ野球選手として、史上初めての公認会計士である。

「試験に受かるまで9年かかりました。’04年の秋から受験勉強を始め、勉強開始から7年目に落ちたときはさすがに諦めようと思いました。それでも、妻の励ましや周りの人たちの協力によって、その2年後に合格することができました」

年数だけをとってみても小学校入学から中学校卒業までと同じで、途方もない期間だ。一口に9年間と言っても、ただ受験勉強だけに没頭していたのではなく食い扶持を稼ぐためには働かなくてはならず、必然と仕事と勉強の両立を余儀なくされる。その間幾度となく心が折れかけるが、不屈の闘志で勉強し続け合格を勝ち取ったのだ。

◆元プロ野球選手初の公認会計士は元虎戦士

見事、元プロ野球選手として史上初の公認会計士となった奥村だったが、プロ野球選手としての人生は、まさに不運の連続だった。

’79年、岐阜県多治見市で生まれた奥村は、野球好きの父親の影響で野球を始め、多治見市立南姫中学軟式野球部3年時に県大会3位となり注目を集める。地域の有力選手とともに土岐商業に進学し、1年生大会の決勝で県立岐阜商業を破って優勝するなど1年生秋より奥村の代を中心にチーム編成される。2年夏の準決勝で県岐商に敗退、3年夏の決勝も宿敵県岐商に8対5で負け、甲子園の道を断たれる。しかし、188センチの身長からキレのよい速球を投げ分ける奥村をプロのスカウトは放っておかず、’97年のドラフトで阪神から6位で指名される。

「この年の1位は中谷仁(現智弁和歌山監督)で、2位に井川慶。そして私の3人が高校生ということもあって仲がよかったんです。甲子園に出ていた中谷は大阪の地理に詳しかったため、入団会見後に井川と私を連れて大阪の街を案内してくれました。田舎から出てきた私にとってきらびやかな街でしたね」

幼き頃からプロ野球選手になるのが夢だった奥村にとって、阪神時代は怪我との戦いだった。1年目に右肘の軟骨除去の手術、2年目はリハビリ、3年目に左脇腹肋骨を痛め、4年目は右肩痛、その年のオフに自由契約。一軍に一度も上がることなく終わった。

◆移籍の打診を断って引退

「2年目のシーズン最終戦になんとか投げることができ、黒潮リーグで就任したばかりの野村監督から『小山2世』と評価されて、若手強化選手の一員として修善寺の競輪学校で特訓させられました。そのときは、ひとつ下の(藤川)球児、ひとつ上の関本さん、あと3つ上の(田中)秀太さんもいましたね。翌年の春のキャンプに一軍に抜擢され、オープン戦終盤まで一軍帯同でした。ここがパフォーマンスのピークでした」

現役引退後、阪神のバッティングピッチャーに採用されたが、たったの1年でお払い箱となった。星野阪神2年目のオフに「改革」と題した血の入れ替えを星野監督が決行したため、その巻き添えを食った形だ。

「他球団へ移籍の打診という話もありましたが、他でも1年でクビになる可能性があるならと断りました。野球へのけじめとしてトライアウトを受けました。背番号3桁で受けたのは私だけだったと思います」

もはや、選手たちの“けじめの場”として形骸化しているトライアウト。当時はトライアウトが2回開催され、奥村は2回目のトライアウト会場が甲子園だったということもあり、感慨深い思いを抱きながら甲子園のマウンドに立ち、現役生活に別れを告げた。

「今思えば、プロ野球選手になることがゴールになってしまい、本来なら次のステージに明確な目標を掲げるはずなのに、意識が遊びの方面へと行ってしまったという後悔の念があります。2年目の秋の調子のまま、マインド設定を変えられていたら、もっとこうなっていたかもしれない……という思いはあります。もう一度プロ野球選手になった時点に戻れるとしたら、一軍で活躍するというおぼろげな設定じゃなく、何年目で一軍に上がって何勝する、その後メジャーに行くという明確な設定をすることで、その間のプロセスも変わってくるためもっと成長できたと思います。そこに対しての後悔はめちゃくちゃありますね」

◆引退後に待ち受けていた茨の道

18歳でプロに入り、右も左もわからない奥村は、まずは一軍で活躍して引退したら解説者や指導者になって生きていけるという思いしかなかった。本来なら一軍でバリバリ投げられるようになるためにタイムスパンで考えなければならない。そうすることで現状と見比べながら足りない箇所を一個ずつ強化していくマイルストーンが設定され、より効率的に目標へと向かうからだ。超一流選手は別として、一軍でレギュラーを張る選手は皆そうしている。

漠然と過ごしたプロ生活は怪我との戦いもあって4年間で自由契約、バッティングピッチャーもたったの1年でクビになり、23歳で世間に放り出された。年齢的には一浪して大学を卒業したと思えば、まだまだ大丈夫……。奥村はそう軽い気持ちでいた。しかし、ここから苦難の道のりを歩むことになるのだった。<取材・文/松永多佳倫>

―[職業 元プロ野球選手]―

【松永多佳倫】

1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)など。現在、小説執筆中

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