阪神暗黒時代の1992年、 あと一歩で優勝を逃した絶対的守護神の苦悩

日刊SPA!

―[職業 元プロ野球選手]―

◆阪神暗黒時代唯一の優勝争いをした1992年

日本一熱狂的なファンを持つ阪神タイガースの優勝といえば、今から36年前の1985年日本一が今や神話として語り継がれているほど強烈なインパクトを与えた。クリーンナップのバース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発に象徴される猛虎打線がペナント序盤から爆発し、圧倒的な打力で21年ぶりの日本一を飾ったのだ。

この阪神の優勝に野球界は騒然とし、しばらく阪神の天下が続くかと思われた。しかし、日本一を飾った2年後から阪神の暗黒時代に突入することとなる。2003年に優勝するまでの16年間でAクラスは1度、5位は2度、最下位は10度という体たらく。西の雄が聞いて呆れるほどの最弱だった。

そんな暗黒時代の中で唯一優勝に近づいた92年はバブル経済が弾け出し日本全体が混迷の最中、甲子園球場では歓喜の雄叫びが弾けまくっていた。たった一度きりの光輝を放った“92年”について、絶対守護神の左のサイドスロー田村勤を抜きにしては語れない。生粋の阪神ファンにとって忘れられない名前だろう。

「現役時代、最低でも今の知識を知っていたら故障も防げたんじゃないかなと」

田村は、人懐っこい笑顔でゆっくりと口を開く。現役時代に老け顔と揶揄されていた面持ちがやっと年齢に追いついた感じだ。

◆ホロ苦い守護神としてのデビュー

絶対的守護神のデビューはホロ苦いものだった。ルーキーイヤーの91年4月16日、広島球場での対広島戦。2番手で6回から登板。打席にはカープの主砲で左打ちの小早川毅彦。カウント1ボールからの2球目のカーブをものの見事にライトスタンドに運ばれた。ホームランを打たれた後、次の山崎隆三には二塁打を打たれ、三塁ベンチから大石清ピッチングコーチがマウンドへやってきた。

「前日、たまたまマイク(仲田)が部屋に遊びにきていて、いい機会だからプロのピッチャーの考えた方を聞いてみると『マウンドに一度上がったら代えられたくないよな』って言うんです。あれだけ乱調で交代させられたりするのに、代えられたくないって凄いなぁ。それくらいの気持ちでいかなきゃいかんのだと思ったんです」

大石コーチがマウンドへ近づいたときに、田村は前日のマイクの言葉がなぜか脳裏に浮かび、突飛な行動に出る。「交代やで~」と言う大石コーチに対し、知らん顔の態度を取った。「おい、交代言うとるやろ」と言われてもそっぽ向く。しまいには大石コーチが「おい、こら! 交代言うとるやろ、ワレ!」とキレて怒鳴り出す。

試合終了後、バスに乗ろうとした際に大石コーチから「あとで部屋へ来い」と田村は言われ、二軍落ちを覚悟して部屋に行くと、ニコッとした顔で大石コーチが言う。

「おい、おまえ、あの状態でまだ投げたかったんか!?」

「はい、投げたかったです」

「お~明日からまた投げさせたるわ! 帰っていいよ」

てっきり二軍落ちを言い渡されると思った田村は予想だにしていなかった言葉に、ただただ驚くしかなかった。

◆木製バットを折りまくった

翌日の試合で、同じような場面で登板し、小早川をレフトフライに抑えた。それからだ。来る日も来る日も投げさせられたが、打たれなかった。結果を出すことで自信と誇りが生まれ、手がつけられないような状態になったという。

「社会人でもノーコン、ノーコンで自滅していくタイプだったんで、サイドに転向して2年目から結果が出るようになりました。当時、社会人は金属バットなんで、詰まったくらいの当たりが一番飛ぶんですよ。もうひとつ差し込める球を生み出せば金属でも抑えられるんじゃないかと研究課題にしてました。

ある意味、プロは木製なので楽になりましたね。社会人は本当に空中戦だったので。金属だと詰まらせたと思うとホームランになっていたのが、プロの場合、詰まらせると“ボキッ!”って音がするんです。プロに入った当初はよくバットを折りましたよ。ホームランとピッチャーゴロじゃ、えらい違いですからね」

ルーキーイヤーは、中継ぎ、抑えと大車輪の活躍で、終わってみれば50試合登板 3勝3敗4セーブ 投球回数59回3分の2で奪三振57の成績を残す。

◆独特の軌道を描くボール

左腕から繰り出す弓なりに弧を描くボールは、綺麗に、そして鋭くホップしながら打者の胸元へ突き刺さる。打者はただ息を潜んで見送るだけ。ソフトバンクの千賀滉大、オリックスの山本由伸、西武の平良海馬、ロッテの佐々木朗希……例えメジャーで通用するような剛速球投手であろうと、田村のようなホップする弧を描く投手をいまだかつて見たことがない。カクテル光線に照らされる球筋は白い閃光を放っていく。92年の田村が投げる球は、確かに眩しかった。

「92年のシーズンが始まるときは、“今年はイケるやろ”という雰囲気などなかった。開幕のヤクルト戦に負けた後、帰りのバスの中は本当に暗かった。“ああ、今年もダメか”とう感じだった。でも、勝つたびに、“あれ? イケるんと違うか”という空気にだんだんなってきた。前年度最下位で、いきなり優勝争いできると誰が思いますか。開幕から勝つごとに“あれ? いつもと違うぞ”という感覚はみんな持っていたんでしょうし、あれよあれよという間にって感じですよ。投手陣もみんな若かったしね」

◆負け癖がついたチームを生まれ変わらせた力投

当時の阪神ナインには万年最下位候補と言われ、負け癖がついていた。開幕の対ヤクルト2連戦も初戦を落とし、第2戦8回まで劣勢だった阪神は9回表に古屋英夫(元日本ハム)の起死回生の同点タイムリー。その裏、田村がマウンドに上がり、ピシャリと抑える。

10回表に阪神は一挙3点を取り、田村が広澤、池山の主力打者を簡単に打ち取る。2回を投げ3奪三振無失点。この力投こそが阪神の勢いを芽生えさせたのである。開幕のヤクルト2戦と次の巨人3戦を3勝2敗で勝ち越し、5年ぶりの開幕カード5連戦の勝ち越しで好スタートを切った。

この勢いのまま阪神は4月を12勝9敗、貯金3で終える。この勝ち越しは日本一に輝いた85年に優勝して以来、7年ぶりの4月勝ち越しであった。田村の4月の成績は、10回3分の1を投げ、1勝0敗5セーブ。登板した試合はすべてセーブポイントをあげた。阪神に待望の守護神誕生である。

◆完全無欠のピッチングの裏で……

田村の勢いは止まらず、5月も登板したすべての試合でセーブをあげ、2勝0敗6セーブ 投球回数41回3分の0 奪三振81 防御率0.00という脅威の数字を叩きだした。この頃から“神様、仏様、田村様”と奉り、完全無欠のピッチングにファンは酔いしれたのである。

「札幌円山球場で大洋の進藤にホームランを打たれる前あたりから、実は相当きつかったんです。正直“ちょっと休みたいな”とあったけど、チームがいい調子だから休みたくても休めなくて。突然の痛みじゃなかった。前年の疲労が引きずっていましたね。1年目のときも、なんか肘がちょっとおかしいなとはあったんですが、そこまで悪くなるとは……」

92年6月6日、札幌円山球場で阪神対大洋9回戦。この日、2―1と阪神1点リードで迎えた8回裏、一死二塁で田村が登板し、シーツ、畠山を連続三振。これで前回登板の巨人戦から8者連続三振。圧巻の投球に酔いしれる阪神ファン。阪神勝利のムードが漂う中、9回裏に進藤達哉にまさかのホームランを浴び、3―3の同点となり、このまま引き分けに終わった。田村が開幕から積み上げてきた連続セーブポイント15でストップ。守護神田村で勝てなければ仕方がない、と阪神ナインやファンも納得し、長いペナントレースのたったひとつの引き分けになるはずだった。だが、このときすでに田村の肘に深刻な痛みが襲いかかっていたとは誰も知るよしもなかった。<取材・文/松永多佳倫>

―[職業 元プロ野球選手]―

【松永多佳倫】

1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)など。現在、小説執筆中

当記事は日刊SPA!の提供記事です。

あなたにおすすめ

ランキング

ランキングをもっとよむ

注目ニュース

注目記事をもっとよむ

あなたにおすすめ