浅井健一- Key Person 第9回 -

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■自分がいいと思った音を出す、 それだけのこと

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』の第9回は浅井健一。初めてギターを手に取り、“何かを起こしたい”というエネルギーに満ちていた十代の頃をはじめ、物事の考え方を教わった家庭教師の存在や、世界文学を知るきっかけになった20歳の頃の先輩、BLANKEY JET CITYでの活動など、自身に影響を与えた人物について語ってくれた。そういった人との関わりで吸収した全ての出来事は、日常の延長線上にある楽曲を生み出す浅井にとって大きなものなのだったに違いない。

■チャレンジしないと何も始まらない

──中学一年生の頃に初めてギターを手にしたそうですが、どんなきっかけだったのでしょうか?

「小学4年生の頃に初めて家にステレオが来て、その時に世界中の音楽が集められた15枚組ほどのLP集が家にあって。その中にThe Shocking Blueの「Venus」と「悲しき鉄道員」…あと、ジミ・ヘンドリックス、Cream、映画音楽、ボサノヴァとか、いろんなものが入ってんだけどさ、その2曲をすごくカッコ良いと思ったんだよね。“俺もそのような世界に行きたい”ってところから始まって。中学1年生の時にお年玉をたくさんもらえたから、その足で親戚の家の近所にあるレコードとギターを売ってるお店でフォークギターを買ったんだよ。エレキはアンプも買わなあかんし、もっと高いから買えなかったんで、とりあえず12,000円のフォークギターを買って、教則本を見ながら始めたって感じかな? その時はフォークソングが全盛期で、教則本はフォークソングばっかりだから、本当はShocking Blueみたいなのをやりたいんだけど、そこにはいきなり行けないので、まず基本を知るべきだと思ってアルペジオだとかコードを覚えたって感じ。」

──オリジナル曲を作り始めたのはいつ頃なんですか?

「高校1、2年の時かな? 「Kill the teacher」っていう曲を作りましたね。」

──一発目からすごいタイトルですね!?

「本当にふざけた先生とかいたんで(笑)。」

──以前、人生にもっとも影響を与えた人物という質問でご両親の他に、小学校の頃の家庭教師の先生と答えてらっしゃったんですけど、どんな方だったんですか?

「クラシックが好きな、ものすごく真っ直ぐな人で、世界中で起きてるいろんな出来事を教えてくださった。まず姉の授業、次に俺の授業があって、ご飯タイムを挟んで最後にまた姉の授業って流れだったから、そのご飯タイムの時に地球儀をテーブルに持ってきて、世界でどういうことが起きてるのかっていうのを話してもらってたんだよね。姉が高校に入ってからは俺が先生の下宿先に行って教えてもらうことになったんだけど、部屋には写真が何枚も貼ってあって、チェ・ゲバラの写真が何枚か壁に掛かっていて。そこで“この人は誰ですか?”って教えてもらったり、物事の考え方みたいなのを教わったんだよね。すごくいい先生だし、自分にとってはでかかった。」

──浅井さんの音楽にも世間の風潮や世界的な問題に対する想いが込められている部分はあると思いますが、そういった今の自分にもつながっている方なんですね。

「絶対つながってるよね。先生が日本の水俣病を題材にした映画を観に行った時も、こんなひどいことがあったってことを俺に教えてくれて。あの方は正義をやろうとしてただけなんだと思う。その時は名古屋大学院生で、今は大学の教授をやってるみたいだけど。」

──今振り返ってみて、十代の頃の浅井さんはどんな少年だったと思いますか?

「何かを起こしたかったかな? エネルギーがあったんで…今もあるけど、何かを起こしたくて“どうしたらいいんだろう?”って思っとってバンドを始めた。」

──今は絵も描かれますが、その時はバンドの他に考えてたことはありましたか?

「十代の頃から絵描きもいいなとは思ってたけどね。お金を貯めてパリに行って、そこで画家を目指しながらなんとか生活できるだろうって真剣に思ってたね。」

──音楽も絵も文章もそうですが、自分の想いを表現したいっていうのがご自身の中でずっとあったんですね。

「うん。このままいたら人生が面白くないと思って…チャレンジしないと何も始まらないからね。だから、絵もバンドもやってたけど、バンドで有名になろうって気持ちが強かった。」

──ご自身に取り込んだものはたくさんあると思いますが、特に印象的なものはありますか?

「まっつぁんっていう先輩がおって、その人は文学的なことが大好きで、俺にビートニクスとかビートジェネレーション、ジム・キャロルとかの世界観を教えてくれたんだよね。その頃は、ヴィム・ヴェンダースの映画『パリ、テキサス』とか、『ベティ・ブルー』『ストレンジャー・ザン・パラダイス』とかさ、その雰囲気がカッコ良くて。俺たちが二十歳くらいで、お洒落というか、感覚がいい人にしか分からないんだろうっていうのがあって。その頃のバンドの歌詞って似たり寄ったりしとって、反政府的だったりとか、そういうのもいいんだけど、もっとカッコ良い歌があるんだっていうのを知った。だから、誰も知らないだろうけど、今日のキーパーソンはまっつぁんにしようか?(笑) 今となっては『路上』(ジャック・ケルアックの小説)を読んでもあんまりピンとこないというか、その頃の自分にとってはジム・キャロルの『マンハッタン少年日記』っていう本はすごくセンセーショナルだったんだけど、久々に読んでみたらそんなに好きじゃないっていうことが判明して。たくさんの人に誤解をさせたかも。でも、その頃に身体に入れた世界観は歌詞にすごく影響してると思う。」

──バンドを始めた頃の名古屋の音楽シーンはどんな感じだったんですか?

「パンク。パンク以外もあるけど、THE STAR CLUBがあって…THE STALINは東京だけど、パンクが全国的に流行ってたかな? そのあとにサイコビリーとかロカビリーがきて、ニューウェイヴっていうか、ポジティヴパンクみたいなThe CureとかSiouxsie And The Bansheesとかあそこらへんの暗い感じをやってる人もちょっといた。」

──その頃のパンクって不良のような怖いイメージはなかったですか?

「危なかったよ。ナイフ持ってたしね。怖い話もよく聞いてたから、守れないとやられるだけだから出かける時は護身用にナイフを持ち歩いてた。」

■BLANKEY JET CITYは 今音楽を作れている全ての源

──1990年にBLANKEY JET CITYとして『三宅裕司のいかすバンド天国』(以下、『イカ天』)に出演し、5週連続勝ち抜いて第6代グランドイカ天キングを獲得されましたが、その後メジャーデビューが決まった時はどんなお気持ちでした?

「“やったー!”と思ったよ。バイトせんでいいし、外国行けるしさ。ずっと目指してたんだもん。だから、レコード会社には何度かデモテープを送ってたんだよ。でも、全然反応がなくて、何も始まらない日々が続いていた時、達也(BLANKEY JET CITYのドラマー・中村達也)に『イカ天』に出ることを勧められたんだよ。番組自体は知ってたけど、観たことは一度もなくて。おちゃらけてるバンドが大嫌いだったから。とはいえ、番組のシステム自体はいいじゃん。無名なバンドをピックアップするっていうか、才能を発掘するという。あれがきっかけになったから、あの番組にはすごく感謝してる。」

──オーディション番組に対する抵抗はなかったんですか?

「“嫌だ”って言ったんだけど、そう言いながらも俺が送ったのかな? まず初めに自分たちのライヴのビデオを送るんだよね。だいぶ忘れてるけど。でも、番組自体は素晴らしいと思うよ。」

──デビューして理想とのギャップもあったんじゃないかと思いますが。

「そうだね。いきなりイギリス人のプロデューサーがついちゃったんで、あれは良くなかったと思う。あまりにも意思疎通ができてなくて…その前に自分たちでデモを日本で録ったんだけど、そっちの音のほうが好きだったんだよね。でも、イギリスまで行ってすごい高いスタジオ借りて、エンジニアにもすごい高いお金を払ってさ。自分たちがそうしたいって言ったわけではないけど、ディレクターが一生懸命考えてくれたことなんで、それはそれで感謝してるんだけどね。音が固いというか、未だにちょっと悔しいというか、自分が未熟だったと思う。かなりね。」

──生き生きしているのはデモのほうだったと。

「何十回も同じ曲をやり続けてるとロボットみたいになってくるからさ(笑)。でも、何回も繰り返し同じことをやって、“こんなのがいいのかな?”って思いながら何も言えなかった。“何か理由があるんだろう”とかって思って頑張って不自然なことをやっていた記憶がある。」

──これも以前おっしゃってたことなんですけど、浅井さんにとってのBLANKEY JET CITYは“人生上、最高に楽しかった思い出”と話されていたことがあって。BLANKEY JET CITYは今のご自分にどんな影響を与えていますか?

「今の自分があるのはBLANKEY JET CITYが存在してくれたからこそ。こうやって今も音楽を作れている全ての源かな? だから、良かったと思う。大事な時だったなって。」

──そんなBLANKEY JET CITYをはじめ、SHERBETSやAJICO、JUDEとさまざまなバンドを組んできた中で、バンドを組む上で大事にしていることって何ですか?

「ときめく音楽が作れるかどうか。そういう音が出せるかっていうのが全てだね。」

──2016年に中尾憲太郎さん、小林 瞳さんと浅井健一&THE INTERCHANGE KILLSを結成されましたが、3人で初めて音を合わせてみた時はどんな感覚がありましたか?

「この3人でやったら何かが起きるって感覚はあった。それは今も変わらずにあるね。瞳ちゃんはね、お母さんがコロンビア人でラテン系の血が入ってるのでリズム…特に8ビートがすごく気持ち良くて、これは絶対やるべきだって思ったんだよね。憲太郎のベースも超気持ち良くて。」

──中学生の頃に初めてギターを弾いてから今に至るまで、忘れられない瞬間を挙げるとしたら何ですか?

「高校の時に練習スタジオにおったおじさんに“ギターソロってどうやって作ればいいんですか?”って訊いたら、“全ては自分の耳次第だよ”って言われたこと。どこを押さえたらいいとかそういうんじゃなくて、自分が弾いていいと思ったらその音でいいんだって。“あぁ、そうか。えらい簡単なことだな”と思ったね。それからは自分の感覚で作ってた。決まり事なんてなくて、自分が“いいな”と思った音を出す、それだけのことなんだって。めちゃくちゃシンプル。だから、その感覚がなきゃ作れないってことになるけどね。」

──浅井さんの音楽はどこか本能的だったり、衣食住に近い感じを受けるのですが、浅井さんにとって音楽は日常の延長線上にあるものという感覚はありますか?

「うん。日常の延長線上っていうのはあるね。そういうのを歌いたい。」

──浅井さんは音楽以外にも本や詩集も発表していて、ストーリー & ダイアリー『神様はいつも両方を作る』(2020年7月発表)も読ませていただいたのですが、実際に歌詞になっている言葉もありましたし、楽曲にも通じるものを感じました。ご自身にとっても、音楽や歌詞を作ることと、言葉で綴ることって似ている感覚はありますか?

「本を書いとったほうが楽しいかな? メロディーを作るのも楽しいんだけど、それに合わせた歌詞を乗せるっていうのは苦痛も伴うんだわ。本では言葉数とか何にもとらわれてないじゃん。だから、自由に書いてると楽しいんだよね。自分で書きながら気がつくことがあって笑っちゃったりしてさ。」

──確かに、本の中には“今書いてて気がついたけど”という話もよく出てきますね。

「そう。文章を書くのは楽しくて…でも、書く時は朝の2時間って決めてる。目覚めてからの2時間か、調子良ければ3時間くらいいけるんだけど、朝書くと面白いことが起きるんだわ。夜より朝のほうが冴えてる。だって、一日がマラソンだとすると、やっぱり始まりのほうが生き生きしてるんだよ。ゴールに近づく寝る前ってヘトヘトじゃん。ド根性でいいものが出てくることもあるけど、俺は走り始めのほうが新鮮で、それを毎日繰り返してる。」

──それはずっと前からそうなんですか?

「10年くらい前に気がついた。それまでは夜だったね。眠いのを我慢しながら夜に必死になって向き合ってる自分がいたりさ。でも、幸運が舞い込んでくるのは、やっぱり朝なんだよね。」

──そんな浅井さんにとってのキーパーソンとなる人物をうがいたいのですが。

「達也と照ちゃん(BLANKEY JET CITYのベーシスト・照井利幸の愛称)かな? 16歳の時に達也が名古屋の公園でライヴやってて、それを観て“やるなら、絶対にバンドだ”って思った。カッコ良かったから、あれは衝撃的だったもん。バンドしかないって決定づけさせてくれた。そのあと、二十歳くらいの時に名古屋のディスコで照ちゃんに会ったから、何だかんだ言ってふたりがキーパーソンだね。」

取材:千々和香苗

浅井健一

アサイケンイチ:1990年~2000年までの10年間にわたるBLANKEY JET CITYとしての活動後、自主レーベル“SEXY STONES RECORDS”を拠点にバンドSHERBETS、AJICO、JUDE、PONTIACSやソロ名義で活動。音楽だけでなく詩や絵画の才能も注目を浴びており、独特なセンスで描かれた作品集を発表し個展も行なう。現在は浅井健一& THE INTERCHANGE KILLSとして活動中。

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