菊地成孔「乱世の時こそ、僕は元気になる」、菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール結成までの回想と今、考え、思うこと

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ジャズ・ミュージシャンの菊地成孔が日本から見た最果てであるアルゼンチンの都市、ブエノスアイレスに初めて訪れたのは2004年。雑誌『エスクァイア日本版』がラテンミュージックの特集を組み、その特派員としての任を受けた時のことだった。幼少期の記憶やブエノスアイレスでの体験を拡張させる形で2ndソロアルバム『南米のエリザベス・テイラー』がリリースされ、その収録曲と世界観を舞台で再現するためのオルケスタ、菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラールが結成されたのが翌年。以降、恒久的な活動をし、15周年を迎えた同オルケスタは、11月18日にサントリーホールという初の舞台でコンサートを行う。菊地に当初を回想してもらうのと共に、今、何を考え、思っているのかを尋ねた。

南米音楽の芳醇な伝統への敬意、そこにエッジを加える。


――今回のコンサートに当たってのコメントで、表紙並びに中面にご登場されたラテンミュージック特集の『エスクァイア日本版』(2005年1月号)について改めて触れていらっしゃいます。そこではじめに、当時のことを再度、回想して頂きたいと考えておりました。

2005年からさらに時間を巻き戻してしまいますが、2000年代の初頭は岩澤瞳さんとのユニット、SPANK HAPPY(現、FINAL SPANK HAPPY)で『クイック・ジャパン』の表紙に登場し、DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN(現、DC/PRG)の1stアルバムがリリースされた時期でした。どちら共に比較的カブいた音楽だったため、よりコンセプチュアルなものをと思い作ったのが1stソロアルバムの『DEGUSTATION A JAZZ』(2004年リリース)です。その数年前、Pro Tools(Digital Audio Workstationの代表的な存在)が汎用的になったんですね。それによって、アコースティックトラックがPC上で編集できるようになり、僕の頭の中で映画のフィルム編集と繋がった。プレイヤーが同時に演奏を始め、最後までインタープレイ(≒即興演奏)を観るというのがジャズの国是でしたから、それに反して、プレイヤーをバラバラに呼び、キーもテンポもバラバラに録音したトラックをPC内で曲の体に編集して、1分ほどの曲を50曲以上揃えてできあがったのが、その『DEGUSUTATION A JAZZ』でした。そういったことをジャズのミュージシャンが取り入れるということは当時、世界中を見ても誰もやっておらず、僕が初めてだったと思います。
一方、幼い頃から映画と映画音楽が好きで、昔、観たものの中にラテンというかフェイクラテン的な音楽が入っていて身に沁みついていた。そういった面は『DEGUSTATION A JAZZ』では抑えていたんだけれども、何故か、『エスクァイア日本版』の編集部から声をかけてもらい、ジャーナリストとして“南米のパリ”と称されているブエノスアイレスに行くことになり、それが『南米のエリザベス・テイラー』を作るきっかけになったんです。
その際の本来の目的は、ムーブメントになっていたフェルナンド・カブサッキやフアナ・モリーナを中心とするアルゼンチン音響派と呼ばれたミュージシャンを追うことでした。しかし、僕に強いインパクトを与えたのはそれではなく、オーセンティックなタンゲリアで聴く、バンドネオン奏者のアストル・ピアソラ以降に生まれたアルゼンチンタンゴの演奏家、何十年もやっているレオポルド・フェデリコ楽団や、ウォン・カーウァイの映画『ブエノスアイレス』で舞台になった、夜中の2時あたりからファーストセットが始まる、歌舞伎町によく似た港町にあるバルスールっていう老舗タンゲリアの老人ばかりのカルテット等々の方に、いたく感動をして。伝統がもっているものはやはり芳醇だなと思いながら日本に帰ってきました。ただ、日本にもすでにアルゼンチンタンゴを日本に広めようという人はいたし、それは僕の仕事ではないと思っていたので、バンドネオンを入れ、アフロビート、現代音楽の要素も入れ、さらにさっきも言った通り、フルアコースティックにも関わらずPCの中でざくざく音情報を切っていくといった考えが『南米のエリザベス・テイラー』へと繋がっていった。


――ブエノスアイレスの後、『南米のエリザベス・テイラー』の制作に当たって、パリに移られたとお聞きしていますが、その経緯もお教え頂けますか?

カヒミ・カリィさんをフィーチャリングしたかったというだけですね。彼女は当時、パリに住んでいましたから、日本に来てもらうか、こちらから出向く必要があった。あと、フランスはピエール・ブーレーズをはじめとするヨーロッパ式の近現代音楽の牙城だったということもあったんですが、とにかく、せっかくなら自分が移動者になろう、なるべく動くんだ、と。ブエノスアイレスは日本のほぼ真裏に位置している極地なんで、他はどこでも近いですから。

――なるほど。パリでカヒミさんの歌声を録音し、それを持ち帰って東京で編集した、と。

そうですね。ちなみに、エリザベス・テイラーのファンだったというわけではなく、タイトルに用いた意味はアメリカのゴージャスな女優の代表というだけでしかなかった。昔は「日本のチャーリー・パーカー」とか「レスリング界の百恵ちゃん」みたいな例え方をよくしていたわけですけど、エリザベス・テイラーの人気が頂点に達していた50~60年代、その例えと同じように、〇〇のエリザベス・テイラーとか、そういう呼ばれ方をしていた人がいたと思うんですよ、たぶん。愛憎関係で繋がる南北アメリカ、準えに用いられたパリ。それぞれが牛肉を国民食とする共通点から 、「南米のエリザベス・テイラー」がパリにいた“かもね”というような感じで、ある種のメタフィクションのようなものをアルバムの中心に設定し、ブエノスアイレス、東京、そしてパリに渡って作られたアルバムでした。


一見はオーセンティック、だけれどもサウンドは異常。


――ジャンル的にもジャズとラテンと現代音楽をPCベースに横断的にやられていて、菊地さんご自身も物理的に大きく移動をしてきた。ということに加えて、やはりペペの面白さにあるのは編成ではないかと、改めて思うんです。全体的にはフルアコースティックでオーソドックスな様相なんだけれども、サックス、パーカッション、ピアノ、ハープ、そしてバンドネオンがいる編成って、実はほぼないですよね。

ないですね。奇矯なアンサンブルっていうか、何でも良いから雑多に入れてしまおうということであれば、ジャズのインプロビゼーションシーンもそうですし、ちょっとしたテクノやクラブミュージックにもある。例えば、タブラとリズムマシーンとラッパーとどこかの国のダンサーが一緒にやるっていうミックスカルチャーのようなものがあるけれど、それはパッと見のごった煮感というか、驚かせようと思ってやっていると思うんですよ、おそらく。あれは嫌で(笑)。

――何と言いますか、あまり文脈を感じられないというか、飛び道具感はありますよね(笑)。

あれはあれでスタイルの一つですけどね。そうではなく、僕がやりたかったのはポスト・モダニズムにおけるマニエリスム(混乱や精神的な危機、錯綜、寓話などを主題とするが、極度の技巧性と作為性に裏づけられている、とりわけ絵画に用いられる手法であり考え方)。PA視点で言えば、パーカッションとハープは普通、パーテーションをしないと同居できないんですよ。ハープは非常にデリケートなので、他の楽器が近づくとマイナスしかない。なので、舞台ではできるだけ離していますが。さらには、バンドネオン奏者がハープと一緒にやることも珍しい。メンバー皆が同じく礼服でドレスアップしているユニフォーミティによって、雑に見ると普通に見えるんだけれども、よくよく考えると異常なサウンドと見栄えであるっていうことを大切にしたかったし、今でも面白いと思っています。

――ハープやパーカッションというのはジャズの歴史において取り入れられた事例がすでにあるわけですが、バンドネオンはなかったですよね。故に、ペペのサウンドをクリエイトする上で、特にカギとなっているように思えます。

バンドネオンは基本的にはタンゴのためにしかないわけです。つまり潰しが効かない。スパイシー過ぎるっていうかね。言い方を変えると、組み込むとどうしてもポスト・ピアソラにしか聴こえないっていうことを背負いこむんですが、バンドネオンを入れることは最初から目的でした。ペペにバンドネオンがいなかったら、ちょっとしたラテン系ウィズストリングスっていう、チャーリー・パーカーの時からあった形態になってしまう。
『南米のエリザベス・テイラー』を発表した当初、映画『ラストタンゴ・イン・パリ』の音楽を担当したガトー・バルビエリと同じことがやりたいだけでしょと、盛んに言われました。ガトー・バルビエリはアルゼンチン出身で、かつサックス奏者でもあり、その音楽の中には当然、バンドネオンが入っているわけです。ただ、それは耳心地が良い、官能的で哀愁に満ちたタンゴジャズで、目指したのはそこではありませんでした。僕が考えていたことは友人のキップ・ハンラハン(アメリカ・ニューヨークの前衛音楽家)とほぼほぼ一緒で、一見、オーセンティックなラテン音楽の体で、ラティーナ以外がやるエッジの効いた音楽ということだった。例えば、『南米のエリザベス・テイラー』のジャケット写真とかを見ると、オーセンティックなものに感じると思うんですよ。しかし、その中身にはとんでもない、スリリングなものが入っている。そういった欲望の元で生まれたアルバムであり、オルケスタなんです。




自ら攻めずに委ねると、思ってもいなかったことが起こる。


――時間を少し先に進めたいのですが、15年間、ペペをやられていて、そのコンセプトは徐々に変わっていったように感じるんです。ここまでのお話は音楽の性質的な話だったかと思いますが、DC/PRGであれば闘争や混乱、大谷能生さんとのラップ・ユニットであるJAZZ DOMMUNISTERSであればジャジー・ヒップホップというものの定義の訂正、SPANK HAPPYであれば恋愛や性。そういったそれぞれのコンセプトが、特に2014年にリリースされた『戦前と戦後』あたりから吸収されていったような気がしました。

15年間でメンバーは変わったけれども、編成が変わったことはないですし、一番大きく変わったことは僕がよく歌うようになった、ということくらいですよ。ボーカリストをフィーチャリングしても良かったんですが、それはごく当たり前なことじゃないですか。バンドリーダーが全部歌うということが面白いなと思い、それまでアルバムに1、2曲チャームで入っていた僕のボーカルを全面的にフィーチャーしたのが『戦前と戦後』で、逆にインストが1曲しか入っていない。

――さらにはラップが入っていました。

OMSBとDyyPRIDEをフィーチャーしましたね(『戦前と戦後』3曲目に収録されている「Michelangelo」)。そこに林正子さんというクラシックのソプラノ歌手まで入り、混血化が拡大されていったことは確かです。でもそれは、変化というよりも潜在化していたものが顕在化しただけの話です。
ペペひとつ取っても、こうして重層的で混血的なわけで、こちらの設えはブッフェのようなものなので、お客様には好きなものだけを食べてくれればそれで良い。官能的なラテン、ということだけ食べたい方もいれば、オーケストラ単位のウイズストリング・ジャズだと思う方も、アフロビーツで踊りたいという方も、極端に言えば「Woman Wの悲劇より」(薬師丸ひろ子のカバー、『戦前と戦後』2曲目に収録)だけを聴きたいっていう、昭和歌謡好きの人もいいらっしゃるかもしれない。むしろ全部食い切られたら困ると思っているから、僕は人生をかけて逃避行を続けていると自覚しています。
コンサートの舞台についても、ブルーノート、スタジオコースト、オーチャードホール、各地方の会館大ホール、リキッドルームと、神出鬼没的にやってきた。ペペはどういう環境でも結構ハマるんですよ。シッティングでも良いし、スタンディングでも聴ける。ブルーノートの場合、僕はPAよりも厨房と仲が良くて、ワインとディナーを僕がプロデュースして出すから実質上のディナーショーになっている。下手したら、菊地っていう人はよく知らないし音楽も何やっているかよく分からないんだけど、料理が好きっていうだけの人も来ているかもしれない(笑)。ただ挙句、サントリーホールで演奏する機会を得られるとは思っていなかったですが。


――今回のお話が来た時の率直な感想をお聞かせ下さい。

「よし、ブルーノートもクラブもやったから、格式高いクラシックのホールも落としていかなければ」みたいな感じで、オフェンシブに攻め攻めでスタッフとミーティングをしながら頑張ってやってきたわけではないです。ブラッドメルドーの様な外人や、山下洋輔さんや綾戸智恵さんといったジャズのビッグネームが過去にやっていますが、基本的にはクラシックにおける殿堂と言われる場所ですから、一生縁がないだろうなとは思っていましたが、国難というか乱世に乗じてか、気づいたら話が来ていた。僕の生き方自体が攻めに行く感じではないので、何となく楽しく暮らしていると世の中が変わり、色んなことが自然と起こるんです。ただ、さすがにサントリーホールと聞いた時は耳を疑いましたが(笑)。

――(笑)。

世界的なソプラノ歌手が歌っているとこよ、って。そんな場所で僕が昭和歌謡なんて歌って良いのかしらって思うんだけどさ。サントリーホールを権威と呼んでしまって良いと思うんですが、権威に対してのアンチはないし、かと言っておもねるわけでもない。新しい態度をもつ第三の立場っていうかね。そういった感じで臨もうと思っています。

――菊地さんは以前よりご自身の憂鬱や痛みを官能に変換させるという考えの元で、音楽表現をし続けられているかと思います。今年、新型コロナウイルスによって大変な状況になり、未だに尾を引いています。今、申し上げた“考え”はあくまで菊地さんの中でのことかと思いますが、聴く人にも同じ影響があると考えられますか?

ペペに限らずですけれども、聴いた人が生きていて良かったと言ってもらえるようになったらとは思っていますね。どんなに難し気に聴こえたとしても、本質は大衆音楽だと思っていますし。ペペはさっきも言った通り、二重、三重構造になっていて、パッと見はエロい音楽で、簡単に言うと、媚薬だとか催淫剤だとか、そういったもののような外面ではあると思うんですよ。それは誤解ではないし、そう思われるのは当然なんだけど、ペペを長年聴いて下さる方は特に、最初はエロい音楽だと思って入っていったら、終わる頃に元気が出たという人が多いです。
ウィズコロナ、ポスト・ロス・オリンピック時代に向けて、どんなこと考えていますかっていう質問の答えは特にないんだけど、いつだって生きることは辛いし、世の中の状況とは逆に元気になる人もいると思うんだよね。僕が実際そうだし。乱世であればあるほど僕は元気になるので、皆さんが鬱々としている中で大変申し訳ございませんが非常に調子が良いのですとしか言いようがない。


――言い方がもしかしたら悪いかもしれませんが、皆さんが菊地さんのように元気とは限らないと思うんです。

それは分かっていますよ、もちろん。今、誰にあっても鬱々としているので。僕は親も親戚一同も、太平洋戦争を生き延びた者たちだったせいもあってか、子供の頃から、また日本が戦後の焼け跡のドサクサになればいいと、心の中で夢想していたので。



――おそらく、今回のコンサートに訪れる方々は、ようやく菊地さんの、ペペの特別な場でのコンサートに行けるんだという喜びに包まれて、サントリーホールを訪れる人が大半だと思うんです。そういった方に向けて、元気な菊地さんから最後に意気込み、メッセージをお願いします。

まず少し話が逸れますが、今回の最大の特徴は配信をしないことです。ブルーノートですら配信をしているのにも関わらず。
配信というか中継と言った方が良いと思うんだけど、昭和のカルチャーっていうのは、相撲も野球も歌舞伎も落語も全部テレビ中継が入っていた。音楽に関しては例外的にウィーンフィルの大晦日コンサートが観られたりしただけだけれども。そこで、会場で観ている人とテレビで観ている人とで二層に分かれるわけですよね。会場の人はその空気を感じられて、テレビの人はアップで観られるとかさ。特権はそれぞれにあるものの、テレビ側の人はやっぱり会場に行くことを望む。 コロナは確かに人々をうんざりさせたと思うけど、一番良いことがあったとしたら昭和の平均的な文化である、中継文化が復興したことですよね。
この間、ペペでブルーノートの配信をやったんですよ。1ステージまるまる配信するなんて初めてでした。そしたら、ずっと昔からあなたのファンだったんだけれども九州の外れにいるから東京まで行けないし、一生観るのを諦めていましたっていう様な方々で、こんなに良いと思わなかったといった声が地方から続々と挙がってきた。それはとても良いと思ったんです。僕は東京から滅多に出ないし、ツアーもそんなにやらない。かと言ってYouTubeチャンネルももっていないし、ブロマガは課金制だし、SNSもやっていない。ブルーノートは価格や飲食など、敷居が高い、そうすると辿り着くのが大変なんだと思うんです。
繰り返すけれども、コロナによって僕の中で具体的に何かがあったとしたら、一つは配信だし、もう一つはサントリーホールから声がかかるっていう地盤が狂った感じですよね(笑)。ただ、インターネットで観られるものだけを組み合わせることには、さすがに皆さんもう飽きたでしょう。こういう時代になり、かつサブスク全盛期になっちゃったから逆行的に、いや巡行的と言ってしまって良いと思うんだけど、生の有難みが上がってきてるわけじゃない? だから、コンサートホールまで行くことの価値が高まってきているところですし、サントリーホールを舞台に二度、三度とコンサートをやるということはおそらくないでしょうから(笑)、この機会に是非、足を運んで頂くことができるのであれば来て欲しいと思っています。結成15年の老舗として、定番のセットを変えずに命懸けで演奏しますから。どんな時でも良いことを見つけないとね。


取材・文=大隅祐輔 撮影=山田航


当記事はSPICEの提供記事です。

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