日常に音楽や芸術があることの喜び、そして、生きることの歓びを~紀平凱成ピアノ・リサイタルレポート

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幼い頃から、数字やアルファベット、記号や音楽のコード (和音) 名に興味を示し、複雑な計算式や漢字の熟語を書き始めるなど、さまざまな事柄において特殊な才能を示したというピアニストの紀平凱成

一度聴いただけの曲をエレクトーンで再現したり、自分の歌声に合わせて、いとも簡単に曲を移調、転調させたりと、音楽的分野においても特殊な能力を開花させ、自ずと作曲や即興演奏も手がけるようになったという。二歳の時に発達障害と診断されたが、その生来の素質は、後に国内の突出した才能を伸ばす人材養成プロジェクトや、英国トリニティ・カレッジ・ロンドンにおいても高い将来性が認められ、さらに大きく花開くこととなった。

そんな紀平が2019年10月にリリースした待望のデビューアルバム『Miracle』を記念して、同年12月より開催しているリサイタルツアー。東京での追加公演は2020年5月に予定されていたが、コロナ禍の自粛期間を経て、9月4日(金)、浜離宮朝日ホールで実現した。


幾何学模様と藍色が映える個性的な装いで舞台に登場した紀平。以前にも増して、少し大人びた感じだ。ピアノの前で正面を向くと、満面の笑みで客席に手を振る。長い間の自粛期間を経て、晴れて舞台で演奏できる喜びを全身で表現しているかのようだ。

「初めてのコンサート頑張りまーす!」 客席に向かって一言。恐らく、自粛後、初のコンサートを “初めて” と表現したのだろう。それほど、数か月の自粛期間は、紀平に大きな意義をもたらしたのかもしれない。

椅子に座ると、腕を軽く回し、大きく深呼吸をしてコンディションを整える。一曲目はロシアの作曲家カプースチンの 「24の前奏曲」より 第11番。大人の雰囲気漂うブルース的な作品だ。


続いて、同じくカプースチンの「8つの演奏会用エチュード」より第5番。息もつかせぬアップテンポな曲を一気に弾きあげる。デモーニッシュ (悪魔的) な超絶技巧をいきなりコンサート冒頭から披露。カプースチンの曲は、どれもピアニスティックな技術が要求されることでも知られるが、もはや、紀平の演奏においては、テクニックなどというものを語る必要はない。この類まれなピアニストは、自分自身が求める理想の音のかたちを、ごく自然なものとして、自由自在に空間に描きだしてしまうのだ。

三曲目は、紀平自身が作曲したオリジナル曲「Rock Deadly Fast」。演奏前、太陽を仰ぐように腕を大きく上げて深い深呼吸。一瞬の沈黙を保った後、第一主題を性急なテンポで一気に奏でる。続いて、たおやかなカンタービレ (歌うような) の第二主題。鍵盤を慈しむかのように豊かに歌いあげる。時折、ピアニッシモや和声の絶妙な変化によって描きだされる大人びた表情が印象的だ。左手が紡ぎだすオクターブやアルペッジョ (分散和音) の重低音が、会場全体を包み込むように力強く響きわたる。最後は指を鍵盤上で華麗に滑らせるグリッサンドで鮮やかに締めくくった。




演奏を終えると、一旦、舞台袖へ。舞台から姿が見えなくなると、客席には、紀平自身の感情豊かな、あたたかい声で録音されたナレーションが、新曲の「Dolphin Wonder」とともに流れる。

CDデビューコンサートで名古屋に行き、色々な人と出会い、とても楽しかったこと。しかし、その後、コロナウィルスが蔓延し出し、人前で演奏ができなくなったことなどが、紀平自身の言葉で語られていた。

「自粛期間中は演奏ができなくなって悲しかったけれど、また皆さんに会える日を心待ちにしてたくさん曲を作っていました。とても悲しいこともありました。僕の愛する作曲家のカプースチンが亡くなりました。続けてもう二曲、カプースチンの曲を弾きたいと思います」

カプースチンの「24の前奏曲」より第9番。しっとりとした大人の情感あふれる作品だ。尊敬する作曲家へ思いを込めた演奏は、あたたかさと素直な心に満ちあふれ、作曲家への敬意と愛情が痛いほど伝わってくる。ジャジーなインプロヴィゼーション (即興演奏) を思わせる技巧的なパートも決して派手に飾ることなく、豊かな情感を内に秘めることで、心の中にむせぶ思いを、紀平らしい “心の言葉” で表現していた。

続けて、同17番。一転、ラグタイムのような洒脱な曲を、軽妙なタッチと絶妙なリズム感で一息に弾きあげる。カプースチンがこの演奏を聴いたらどれほど喜んだだろうかと想像してしまうほど、ジャズやロックなど、様々な音楽ジャンルの影響を受けたこの作曲家の冒険的な精神と多彩な音の世界を、驚くほどに成熟した響きで描きだした。

ふたたび、紀平作曲によるオリジナル曲二曲。一曲目は「Tennis Boy Rag」という愉しい曲だ。演奏前に、自らに言い聞かせるように発破をかける紀平。


「テンポを落とさないように気をつけます。皆さん、拍手してください!」

ユニークなセリフに、会場からあたたかな笑いがこぼれた。

オクターブの連打も速いパッセージも自由自在。流れるように軽やかに転調してゆく心地よさに、聴いているほうも思わず踊りだしたくなる。先に演奏されたオリジナル曲「Rock Deadly Fast」は、クラシック的な形式の曲で作られていたが、この「Tennis Boy Rag」という作品 はクラシックにはない自由な奔放さが魅力だ。

もう一つのオリジナル曲は「Taking off Loneliness」。左手の定型の伴奏にのって、右手のメロディがシンプルに歌う曲だ。しかし、澄み切った心の静けさの中にも、豊かな和声を生みだし、多彩で柔軟なダイナミクス (音の強弱による表現) によって、さまざまな表情が描きだされてゆく。

「Taking off Loneliness」=「寂しさや孤独を振り払って」というタイトルが描きだすように、憂いのある表情も、明るく前向きに。決して、悲しみの感情をストレートに描きださない紀平の心の豊かさと大人びた感受性が印象的だった。


ここで、ふたたび紀平の言葉によるナレーション。

「僕が最も影響を受けた作曲家はカプースチンです。ジャズやロックのような曲を聴くとワクワクします。僕もカプースチンのような作曲家になりたいです。これから弾く曲が、カプースチンに届くといいです!」

カプースチンに捧げる一曲目は、ラフマニノフの前奏曲から「鐘」。中間部の流れるような三連符の連続から、のめり込むように頂点を目指し、疾走してゆく。そして、息をつく間もなく、一気に重低音の渦へ。アクセントをともなったフォルティッシッシモ (FFF) の下降音階の鋭さと力強さに圧倒される。続く、エキゾチックな鐘の音を表現したテーマの再現。鐘の音が、近く、怒号の様に鳴り響いていた瞬間から、遠く、かすかに余韻を残すまでに消えゆく様を天才的なバランス感覚で表現してみせた。

カプースチンに捧げる二曲目は、「No Tears Forever」。自粛期間中に亡くなったロシアの作曲家を想って紀平が書きあげた作品だ。メランコリックで、哀愁を漂わせる一曲は、前半、敬愛する作曲家の育った冷涼な大地の情景を描きだすスラブ的な抒情性が郷愁を誘う。


一転して、明るく希望に満ちた展開部。生前、カプースチンが好んで用いたジャズやラグタイムのような洒脱なスタイルで悲しみを振り払い、亡き作曲家の魂を慰めているかのようにも思える。哀愁漂う第一主題に戻った後は、さりげなく華麗なテクニックも聴かせるが、派手さを見せぬ抑制した音の中に、むしろ、より強い情感が感じられた。

関係者によると、皆一同に、「紀平は音楽的にも、人間的にも、自粛期間中の数か月で大きく成長した」 という。まさに、その言葉を感じさせる輝きと閃きがこの曲にあった。

演奏後、ふたたび、ナレーションが流れる。

「これからも、僕らしく、カイルらしく輝いていきたい ———。僕の大好きな、”星”の曲、そして、僕の作った、”風”の曲を弾きます。そして最後に、もう1曲、できたばかりの曲を聴いてください。今日はありがとうございました」




プログラムには「お気に入りの曲を紀平凱成アレンジで」 と題された一曲が、紀平が”星の曲”と表した曲。坂本九の「見上げてごらん夜の星を」を紀平流にアレンジした作品だ。この名曲を、カイル流にのびのびと明るく。そして、青春の痛みというのだろうか、少しだけ、甘酸ぱっさのようなものも感じられた。美しいアルペッジョ (分散和音) の優雅な音色に客席の聴衆も夢心地へと誘われる。

続いては、紀平が “風の曲” と表現する「Winds Send Love」。おなじみのオリジナル作品だ。愛らしさに満ちた第一主題に続いて、強く訴えかけるかのような性急な第二主題。疾風怒濤の起伏の中に、何かを揺り動かす大いなる風の力を暗示しているかのようだ。中間部では、さまざまな情景の中の風の印象が、鮮やかにダイナミックに描きだされていた。

プログラムの最後は、「Songs Over Words」。自粛期間中に作曲された新作だ。「Songs Over Words 」=「言葉を超えた歌」。タイトルが語るように、今を生きる等身大の紀平の思いと、メッセージが、言葉を超えて、メロディ (歌) の中に表されているかのようだ。中間部で聴かれる右手の華麗なパッセージは、星々の輝きをも思わせる。まるで、広大な宇宙の中にたたずむ無数の星たちに語りかけるかのように————。


自粛中、ファンの前で演奏できる日を想い、曲を作り続けていたという紀平だが、ついにコンサートでその一曲を演奏できる歓びが伝わってくる生命力あふれる演奏。何よりも、紀平自身が心から音楽を楽しんでいる姿に、客席が一体となって引きよせられてゆくかのようだ。完全に客席全体が、カイルワールドに引き込まれ、今にも一緒になって肩を揺らし、ハミングしたくなるような思いにとらわれる。

すべてのプログラムの演奏を終え、紀平が舞台袖に入っても、客席からのあたたかい拍手は続く。アンコールの一曲は、シューマン=リスト「献呈」。作曲家シューマン自身が抱く恋人クララへの愛情と若々しさあふれるメロディを、前のめりすぎず、押さえた感情で弾きあげる。その分、最後の最後に来るクライマックスが美しく力強く心に響く。リスト編曲の作品らしい華麗な弾き納め。紀平自身、弾き切った! という満足感がその満面の笑みにあふれ出ていた。



客席に向かって何度も手を振り、惜しみない拍手に応える。そして、ふたたび、ゆっくりと舞台袖へ。その後ろ姿がとても可愛らしい。

ノンストップで全13曲。一時間にわたって多彩な音と言葉を聴かせてくれたピアニスト紀平凱成。長い自粛期間を経て実現した、このかけがえのないリサイタル 「Miracle」 を通して、日常に音楽や芸術があることの喜びを、そして、生きることの歓びを、あらためて教えてくれたような気がする。

取材・文: 朝岡久美子

当記事はSPICEの提供記事です。

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