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大学教育は生き延びられるのか?(内田樹の研究室)

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今回は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

大学教育は生き延びられるのか?(内田樹の研究室)



ご紹介いただきました、内田でございます。本日は、国立大学の教養教育の担当の人たちがお集まりになっていると伺いました。ずいぶんご苦労されてると思います。日々本当に胃が痛むような、苛立つような思いをしていらっしゃると思います。今回のご依頼をいただいたとき、かなり絶望的な話をしようと思ったんですけども、先ほどみんなを励ますようなことをお話しくださいと頼まれましたので、なんとか終わりの頃には少し希望が持てるような話にできればと思っています。

「大学教育は生き延びられるのか?」という問いの答えは「ノー」です。それは皆さん実感してると思います。大学教育は生き延びられるのか。生き延びられないです。今のまま状況では。

でも、仕方がないと言えば仕方がないのです。急激な人口減少局面にあり、経済成長の望みはまったくない。かつては学術的発信力でも、教育水準でも、日本の大学は東アジアの頂点にいましたけれ。でも今はもう中国やシンガポール、韓国にも台湾にも抜かれようとしている。急激に大学のレベルが下がっているのです。そして、急激に大学のレベルが国際的に低下していることについて、当の大学人たちにも教育行政の当局にもその自覚がない。これが危機の本質だと思います。

私は今もいくつかの大学で客員教授や理事をして、大学の現場とのかかわりを維持していますけれど、フルタイムの大学教員ではありません。ですから、好きなことを言わせてもらいいます。

正直に言って、日本の大学は、このままではもう先はないです。教育制度は惰性が強いですから、簡単には潰れはしません。民間企業のようにいきなり倒産するということはない。でも、じりじりと駄目になってゆく。長期停滞傾向が続いて、20年、30年経ったあたりで、もう本当に使い物にならなる。それでもまだ組織としてはもつでしょう。医療とか教育というのは「それがなくては共同体が存続しえない」本質的な制度ですから、最終的には現場にいる人たちが身体を張って守ります。ですから、どんなにシステムがおかしくなっても、公的な支援が途絶えても、それでもなんとか持続はします。でも、それはほんとうに現場の人が命を削ってもたせているからもっているのであって、公的制度としてはもう破綻している。ブラック企業と同じでです。フロントラインに立ってる生身の人間が必死になって現場を回しているわけで、その人たちがばたばた過労死しているおかげでかろうじてシステムの体をなしている。大学もそういう状況にいずれなりますし、局所的にはもうそうなっている。

医療の世界でかつて「立ち去り型サボタージュ」という言葉が使われました。小松秀樹さんの書かれた『医療崩壊』という本がその事実を明らかにしました。小松先生とは一度お会いしたことがありますけれど、その時に教えられたのは、「医療崩壊」というけれど、医療もやはり惰性の強いシステムなので、簡単には崩壊しないということでした。それは現場に立って医療の最前線を守っているドクターやナースは自分の健康や家庭生活を犠牲にしても医療を守ろうとするからです。そういう「業」を抱えた人が医療の現場に立っている。だから、制度的に破綻していても、簡単には崩壊しないんだ、と。でも、生身の人間ですから、彼らのオーバーアチーブメントに頼って支援の手当をせずに放置しておけば、いずれ一人倒れ二人倒れ、前線の維持が難しくなる。そういうお話でした。

10年ぐらい前に医療で起きたのと同じことが今、大学で起こっているような気がします。教育現場で働いてる人間を支援するという体制が国にも自治体にもメディアにも市民社会にもない。逆に、公的な制度やメディアが現場の教職員たちを追いつめている。精神的にも身体的にも「まだ働き方が足りない」と負荷をかけている。

それでもなんとか現場がもっているのは、教育に関わる人間もまた医療人と同じようにある種の「業」を抱えているからです。教員という職業を選ぶ人には一定の傾向性があります。医療を職業に選ぶ人たちと同じように、教員は学校という場が好きなんです。教室で若い人たちの前に立って何かを教えることが好きで、研究が好きで、アカデミアで異なる領域の知性と出会うことが好きで、という人が学校教育の場には引き寄せられてくる。だから、常軌を逸した負荷がかかっていても、なんとか踏みとどまろうとする。家庭生活や健康を犠牲にしても、自分の職域を守り抜こうとする。今の日本の大学がこれほど否定的環境にありながら、なんとか保っているのは、教育人たちのこの「業の深さ」のおかげです。

でも、生身の人間が蔵している生命資源は本来であれば他のことに使わなければいけないものです。一家団欒とか、文化活動とか。運動したり、遊んだり、自分の好きな研究をしたり、そういう本当にしたいことを断念して、その資源を学校の管理業務とか文科省の命じてくる意味のない作業に割かなければならない。

僕は選択定年制で大学を5年早く辞めたのですが、最大の理由は会議と書類書きが受忍限度を超えたからです。研究することも教育することも大好きなんですけれど、会議と書類書きが大嫌いでした。50代の途中からは6年間管理職でした。授業のない日に会議のためだけに登校するということが何度もありました。だから、あと5年いても、退職まで管理職が続くことがほぼ確実だったので、申し訳ないけれど60歳で退職しました。そういう意味では僕も「立ち去り型サボタージュ」の一人なんです。でも、これ以上いると、自分自身が干上がってしまうと思った。60歳になって、残りの人生のカウントダウンが始まったのに、まだやり残した仕事がたくさんある。研究の領域でもありましたし、武道家としてもやらなければならないことがたくさんありました。大学を守るためには現場に残って、仲間たちと激務を分担しなければいけないということは理屈ではわかっていたのですが、会議と書類書きで自分の時間をこれ以上費やすことに耐えられなかった。その点では忸怩たる思いがあります。そうやって現場を棄てた人間の慚愧の思いを込めて、今日本の大学教育が一体どういうところにあるか、お話をしたいと思います。

まず具体的な実態から、お話します。2002年から日本の学術研究は質、量ともに国際競争力が低下しています。2015年の「人口あたり論文数」は世界37位。中国、台湾、韓国のはるか後塵を拝しています。現在の日本の学術的発信力はOECD諸国の中では最下位レベルです。

論文数の減少が著しいのが、かつて国際競争力が高かった分野だというのも気になります。工学系は2004年以降論文数が減少。生命科学系、農学系、理学系も低下傾向です。社会科学系では論文数はそれほど減っていませんが、もともと国際競争力のない分野です。総体として、日本の大学の国際競争力は過去15年間下がり続けています。

でも、この「人口当たり論文数」が先進国最低という事実をメディアは報道したがりません。代わりによく報道するのが「教育に対する公的支出の比率」です。公的支出の中に占める教育費の割合は先進国最低。それも5年連続です。この事実についての反省の弁を政府部内から聞いた記憶が僕にはありません。この国の政府は教育研究の支援には関心がないということです。ですから、今のシステムが続く限り、教育に対する公的支出比率先進国最下位という定位置に日本はとどまり続けることになります。

なぜ、日本の大学の学術的発信力がこれほど急激に衰えたのか。僕は35年間大学の教壇に立ってきましたので、この経年変化を砂かぶりで観察してきました。はっきりした変化が始まったのは1991年の大学設置基準の大綱化からです。

誤解して欲しくないのですが、設置基準の大綱化そのものが研究教育能力の劣化をもたらしたわけではありません。大綱化を導入せざるを得なくなった歴史的な教育環境の変化があり、それが日本の大学の学術的な生産力を損なったのです。

でも、これについて教育行政当局は何も分析していない。先進国の中で日本の大学教育のアウトカムが最低レベルにまで下がったという事実については「全部大学の責任」であり、教育行政には何の瑕疵もないという態度を貫いている。悪いのは文科省ではなくて大学であるわけですから、失敗の原因を探求するのも、対応策を講じるのも全部大学の自己責任であるという話になっている。ですから、文科省の仕事はそういう「できの悪い大学に罰を与える」ことに限定されている。そうやって毎年助成金を削り、学長に権限を集中させて教授会自治を否定し、大学の自由裁量権を奪い、自己評価自己点検作業を強要し、次から次への大学への課題を課して、研究教育のための時間を奪っておいて、その上で「どうして研究教育がうまくゆかないのか」について会議を開き、山のような報告書を書くことを義務づけている。

文科省は大学に自己評価を求めていますが、僕はまず文科省自身が自己評価する必要があると思います。過去25年間の教育行政を点検して、現状はどうか、なぜこんなことになったのか、どうすれば改善できるのか。大学に要求するより先に、文科省自身がPDCAサイクル回してみればいい。どんな点数がつくかみものです。

先ほど申し上げましたが、転換点は91年の大学設置基準の大綱化でした。それまでの日本の大学はよく言われる通り「護送船団方式」でした。いわゆる「親方日の丸」です。箸の上げ下ろしまでうるさく文部省が指図する代わりに、面倒は全部見る。そういう家父長制的な制度だった。

でも、大綱化によって、細かいことに関しては、大学の自由に任せようということになった。家父長的な制度がなくなって、大学が自由にカリキュラムを作ることができるようになったことそれ自体はたいへんよいことだったと僕は思います。当時も僕はこの方向性を歓迎しておりました。「自己決定・自己責任」でいいじゃないかと僕も思いました。でも、文科省が大学に自由を与え、権限委譲することに裏がないはずがない。実際にそれが意味したのは大学の淘汰を市場に委ねるということでした。

91年段階で、今後18歳人口が急激に減ってゆくことが予測されていました。60年代には250万人いた18歳人口は以後漸減して76年に156万まで減りましたが、その後V字回復して1992年に205万人に戻しました。そして、そこから減り続けた。2017年では120万人。25年間で40%減少したことになります。

大綱化は18歳人口がピークアウトして、以後急減局面に入り、増え過ぎた大学定員を満たすことが困難な局面に入るということがはっきりわかった時点で導入されました。これから大学の数を減らさなければいけないということは文科省(当時は文部省)にもわかっていました。もう護送船団方式は維持できない。文部省と大学はそれまで親鳥とひな鳥のような関係でした。親鳥はひな鳥を扶養する代わりにあらゆることについて口出しした。でも、親鳥が増え過ぎたひな鳥を扶養できない時代がもうすぐ来ることがわかった。護送船団のロジックからしたら、ひな鳥が死んだらそれは親鳥の責任になる。こんな弱い鳥を産んだお前が悪いということになる。でも、これから後、ひな鳥はばたばた死ぬ。だから、親鳥の仕事を放棄して、「これからは自己裁量で生き抜きなさい」と言い出した。なぜ淘汰圧に耐えられないような高等教育機関を認可したのか。なぜそこに税金を投入したのか。そういう問いに対して文部省には備えがなかったからです。

でも、それはある意味では当然のことでした。明治の近代学制の導入以来、日本の教育行政の最大の使命は教育機会の増大だったからです。国民にいか多くの良質な就学機会を提供するか、それが近代日本の教育行政の本務だった。だから、学校を増やすことを正当化するロジックでしたら教育官僚は無限に作り出すことができた。そして、実際にそのロジックを駆使して、国民の就学機会を増やし続けたのです。それは敗戦後も変わりませんでした。敗戦国日本は軍事力や外交力ではなく、むしろ経済力や教育力や学術的発信力によって国際社会に認知される道を進むべきだということについては国民的な合意が形成されていました。

だから、ある意味で文部省の仕事は簡単だったのです。でも、80年代になって難問に遭遇しました。18歳人口が減ることがわかってきたからです。しばらくは大学進学率の上昇が期待できるので、大学定員は満たせるだろうけれど、それもどこかで天井を打つ。そのあとは大学を減らさなければならない。でも、文科省にはどうやって教育機会を増やすかについての理屈はあるけれど、どうやって教育機会を減らすかのロジックがなかった。護送船団方式でそれまでやってきたわけですから、自分が認可し、自分が指図して育てて来た大学に対して「お前は失敗作だったから廃校しろ」というわけにはゆかない。製造者責任を問われるのは文部省自身だからです。

そこで大学の淘汰は市場に委ねるというアイディアに飛びついたのです。強者が生き残り、弱者は淘汰されるというのは市場では自明のことです。自分の生んで育てたひな鳥を殺す仕事を親鳥は放棄して、市場に丸投げしたのです。これが91年の大学設置基準大綱化の歴史的な意味です。これは明治維新以降の教育行政の決定的な転換点でした。でも、その時点では僕も僕のまわりの大学人も、この変化の歴史的意味に気づいていなかった。18歳人口が減ってゆく以上、大学が生き残りをかけてそれぞれに創意工夫を凝らすことは「当たり前」のことであり、その淘汰プロセスで大学教育研究の質は向上するに違いないと、僕も信じておりました。

けれども、この期待はまったく外れてしまった。市場に委ねるということは、それぞれの大学に好き勝手なことをしてくれということではなかったのです。というのは、求められたのは、どの大学が「要らない大学」であるか可視化することだったからです。そのためにはシンプルでわかりやすい指標に基づいて大学を格付けしなければならない。市場はそれを要求してきたのです。

この場合の「市場」というのは、どの大学のどの学部を受験するか選ぶ志願者たちとその保護者のことであり、また彼らが就職する先の企業のことです。志願者と保護者が求めたのは「そこを卒業すると、どれくらいの年収や地位が期待できるか」についての情報であり、採用先が求めたのは「そこを卒業した労働者にはどれくらいの能力と忠誠心を期待できるか」についての情報でした。

大綱化というのは自由化のことだと僕は勘違いしていました。でも、そうではなかったんです。それは「どの大学から順番に淘汰されてゆくかを可視化して、市場に開示せよ」ということだったのです。

僕は大学のカリキュラムの自由化によって、それぞれ日本中の大学が、それぞれの教育理念と教育方法を持ち、それぞれの教育プログラムを編成して、それぞれ異なる達成目標をめざすということになると思い込んでいた。でも、大綱化から後、大学に求められたのは均質化・同質化でした。「自由に競争してよい」というものの、その競争の結果出てくる優劣の差はわかりやすい仕方で表示されなければならない。競争することは自由になったけれど、教育や研究のあり方が自由になったわけではない。むしろそれはより不自由なものになった。というのは、格付けのためには全ての大学の活動を同じ「ものさし」で考量する必要があったからです。格付けというのはそういうことです。複数の教育機関の優劣を判定するためには、同じ「ものさし」をあてがってその差を数値的に表示しなければならない。入学者の偏差値であるとか、就職率であるとか、卒業時点でのTOEICスコアであるとか、そういう共通性の高い「ものさし」を当ててみせないと大学間の優劣は可視化できない。そして、そのためにはものさしが当てやすいように教育内容を揃えることが全大学に求められることになった。

まことに逆説的なことですけれど、「好きにやってよい。その結果について格付けをする」と言われたのだけれど、よく考えてみたら「同じようなことをしないと格付けができない」以上、日本中の大学が自発的に相互模倣する他ないという倒錯的な事態が生じることになった。

考えてみれば、それと同じことはすでに研究領域でも起きていたのでした。若い研究者たちは専任のポストを求めて競争することを強いられています。でも、研究領域がばらばらで、テーマがばらばらで、研究方法もばらばらだと、研究成果の優劣は確定しがたい。それよりは、研究者たちができるだけ同じ研究領域に集中して、同じ研究方法で、同じ研究課題に取り組んでいてもらう方がひとりひとりの出来不出来を比較しやすい。当然です。その結果、若い研究者たちを競争的環境に投じたら、研究者ができるだけたくさんいる領域を選んで専攻するようになった。誰も手がけない、前人未到の領域こそが本来なら研究者の知的関心を掻き立てるはずですけれど、そういう領域に踏み込むと「研究成果が査定不能」というリスクを負うことになる。「格付け不能」というのは市場からすると「無価値」と同義です。だから、リスクを避ける秀才たちは「誰も手がけない領域」ではなく「競争相手で混み合っている領域」に頭から突っ込んでゆくようになった。そうやって日本の学術研究の多様性は短期間に急激に失われていったのでした。

部分的に見ると適切なように見えるものも、少し広めのタイムスパンの中に置き換えると不適切であり有害であるということがあります。大学の格付けというのは、まさにそのようなものでした。大学の優劣を可視化するという社会的要請はそれだけ見れば合理的なものに思えますけれど、その帰結が大学の均質化と研究成果の劣化だったとすれば全体的には不適切なものだったという他ない。

自己評価というのも今ではどこの大学も当たり前のようにやっていますけれど、そもそも何のために自己評価活動が要るのかというおおもとのところに還って考えるということをしていないので、膨大な無駄が生じている。はっきり言って、こんなものは日本の大学には不要なものです。でも、アメリカでは大学の評価活動を熱心に行っているから日本でもやろうということになった。それは社会の中における大学のありようが日米では全然違うということがわかっていないから起きた重大な誤解です。

アメリカの大学の中にはとても大学とは言い難いようなものがたくさんあります。大学設置基準が日本とは違うからです。アメリカの場合、ビルの一室、私書箱一つでも大学が開校できる。校地面積であるとか、教員数であるとか、蔵書数であるとか、そういうことについてうるさい縛りがない。教育活動としての実態がないのだけれど、「大学」を名乗っている機関がある。そういう大学のことをDegree millとか、Diploma millと呼びます。「学位工場」です。学士号や修士号や博士号を単なる商品として売るのです。

学位工場はアメリカの商習慣から言うと違法ではありません。というのは、一方には金を出せば学位を売るという大学があり、他方には金を出して学位を買いたいという消費者がいて、需給の要請が一致してるからです。売り買いされているものが無価値な、ジャンクな商品だということは売る側も買う側も知っている。無価値なものを売り買いしており、その価格が適正だと双方が思っているなら、法的な規制はかけられない。そうやってアメリカ国内には無数の学位工場が存在している。

そこでアメリカの「まともな大学」が集まって、「まともな大学」と「学位工場」の差別化をはかった。でも、「学位工場」のブラックリストを作ることはできません。それは彼らの営業を妨害することになり、場合によっては巨額の賠償請求を求められるリスクがあるからです。合法的に経営されている企業の活動を妨害するわけにはゆかない。だから、「この学校はインチキですよ。この大学の出している修士号とか博士号とかはほんとうは無価値なんですよ」ということはアナウンスできない。できるのは「私たちはまともな大学であり、私たちの出す学位は信頼性があります」という自己主張だけです。でも、自分ひとりで「うちはまともです」と言っても十分な信頼性がない。だから、世間に名の通った「まともな大学」を集めて、「まともな大学同士でお互いの品質保証をし合う」という「ホワイトリスト」の仕組みを作った。それが相互評価です。

でも、日本にはそんな相互評価の必要性なんかありませんでした。だって、学位工場なんか存在しなかったからです。日本の大学は厳しい設置基準をクリアしてきて創立されたもので、教育しないで、学位を金で売るようなインチキな大学は存在する余地がなかった。

でも、確かにある時点からそれが必要になってきた。それは小泉内閣以後の「規制緩和」によって、大学の設置基準も緩和されたからです。厳しい設置基準審査は割愛する。その大学が存在するだけの価値があるかどうかの判定は市場に委ねる。「事前審査」から「事後評価」へというこの流れは「護送船団方式」から「市場へ丸投げ」という大綱化と同じ文脈で登場してきました。

2003年に規制緩和路線の中で株式会社立大学が登場しました。「構造改革特区」においては学校法人ではなく、株式会社にも学校経営への参入が容認されたのです。それ以前は私立学校の設立母体となることができるのは学校法人だけでした。規制緩和によって、2004年から続々と株式会社立大学が設立されました。でも、株式会社立大学のその後はかなり悲惨なものでした。

全国14キャンパスを展開したLECリーガルマインド大学は2009年度に学部が募集停止。2006年開学のLCA大学院大学も2009年に募集停止。TAC大学院大学、WAO大学院大学は申請に至らず。ビジネス・ブレークスルー大学は2012年度の大学基準協会の大学認証評価で「不適合」判定を受けました。実質的に専任教員が置かれていないこと、研究を支援・促進する仕組みが整備されていないこと、自己点検評価・第三者評価の結果を組織改善・向上に結びつける仕組みが機能していないことなどが指摘されましたが、これは経営破綻に至った他の株式会社立大学にも共通していたことでした。

でも、僕はこの失敗についても株式会社立大学を推進した人々からまともな反省の弁を聞いたことがありません。導入時点では、財界人たちからは、大学の教員というのはビジネスを知らない、マーケットの仕組みが分かってない、組織マネジメントができていない、だから駄目なんだということがうるさく言われました。生き馬の目を抜くマーケットで成功している本物のビジネスマンが大学を経営すれば大成功するに決まっているという触れ込みでしたが、蓋を開けてみたらほとんど全部失敗した。それについても、なぜ失敗したのかについて真剣な反省の弁を聞いたことがありません。誰の口からも。もし大学人に足りないのはビジネスマインドだというのが本当なら、この「ビジネスマン」たちもかなりビジネスマインドに致命的な欠陥を抱えていたということになります。でも、それよりむしろ学校教育に市場原理を持ち込むという発想そのものに誤りがあったのだと僕は思います。

これらの出来事はすべて同一の文脈の中で生起したことです。これらの出来事に伏流しているのは「市場は間違えない」という信憑です。学校教育の良否を判定するのは市場であると考えたビジネスマンたちは、消費者が喜びそうな教育商品・教育サービスを展開すれば、必ず学生たちは集まってくると考えました。株式会社立大学はいろいろな手で志願者を集めましたが、それは商品を売る場合と同じ考え方に基づくものでした。駅前で足の便がいいとか、スクーリングなくて一度も登校しなくても学位が取れるとか。でも、消費者を引き付けようとするなら、最終的に一番魅力的な訴えは「うちは勉強しなくても学位が取れます」ということになる。そうならざるを得ない。市場モデルでは、学習努力が貨幣、単位や学位が商品とみなされます。最も安価で商品を提供できるのがよい企業だという図式をそのまま学校教育に適用すれば、学習努力がゼロで学位が取れる学校が一番いい学校だということになる。実際に、そう信じて株式会社立大学の経営者たちは専任教員を雇わず、ビデオを流してコストカットに励み、学生たちには「最低の学習努力で卒業できます」と宣伝した。それは学位工場に限りなく近いかたちの大学を日本にも創り出そうとしたということです。でも、幸いにもその企ては成功しなかった。果たしてその失敗の経験から、株式会社立大学の導入を進めた人々は一体何を学んだのか。たぶん何も学んでいないと思います。今も「大学では実学を教えろ」とか「実務経験者を教授にしろ」と言い立てている人はいくらもいます。彼らの記憶の中では株式会社立大学のことはたぶん「なかったこと」になっているのでしょう。

その後に登場してきたのが「グローバル教育」です。これも表向きは経済のグローバル化に対応して云々ということになっていますけれど、実態は格付けのためです。大学の優劣をどうやって数値的に可視化するかということが90年代以降の文科省の教育行政の最優先の課題でしたけれど、グローバル教育はまさにそのためのものでした。つまり、「グローバル化度」という数値によって全大学を格付けすることにしたのです。これはたしかに賢い方法でした。「グローバル化度」は簡単に数値的に表示できるからです。受け入れ留学生数、派遣留学生数、海外提携校数、英語で行っている授業のコマ数、外国人教員数、TOEICのスコア・・・これは全部数値です。これらの数値のそれぞれにしかるべき指数を乗じると、その大学の「グローバル化度」がはじき出される。電卓一つあれば、大学の「グローバル化度」は計算できる。

でも、留学生の数とか、海外提携校の数とか、外国人教員数とか、英語での授業の数は大学の研究教育の質とは実際には何の関係もありません。今の日本の大学生は日本語での授業でさえ十分に理解しているとは言い難い。それを英語で行うことによって彼らの学力が向上するという見通しに僕はまったく同意できません。

今、どこの大学でも「一年間留学を義務づける」ということが「グローバル化度」ポイントを上げるために導入されています。学生からは授業料を徴収しておいて、授業は海外の大学に丸投げして、先方が請求してくる授業料との「さや」を取る。何もしないで金が入ってくるのですから、大学としては笑いが止まらない。25%の学生が不在なのですから、光熱費もかからない、トイレットペーパーの消費量も減る、教職員もその分削減できる。いいことづくめです。そのうち「いっそ2年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出す知恵者が出てくるでしょう。さらにコストカットが進んで利益が出る。すると誰かさらに知恵のある者が「いっそ4年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出すかもしれない。そうしたら校舎も要らないし、教職員も要らない。管理コストはゼロになる。でも、そのときは大学ももう存在しない。でも、自分たちがそういうふうに足元を掘り崩すようなリスクを冒しているということを、この「グローバル教育」推進者たちはたぶん気づいていないような気がします。

シラバスというのも、そのような学校教育への市場原理の侵入の一つの徴候です。もちろんそれまでも授業便覧・学修便覧は存在していたわけですけれど、シラバスはそれとは性格がまったく違います。あれは工業製品につける「仕様書」だからです。含有物質は何か、どういう規格に従って製造されたのか、どういう効用があるのか、そういう情報を消費者に開示するためのものです。ある意味では契約書です。「こういう授業をいついつにする」と教師は約束する。学生はそれが履行されることを教師に要求できる。予定通りに授業をしなかった場合、所期の学習効果が得られなかった場合、学生は教師に対して「契約不履行」でクレームをつけて、謝罪なり補講なりを請求できる。そういう趣旨のものです。

でも、大学の授業は工業製品じゃありません。本来は生身の教師が生身の学生たちの前に立ったときにその場で一回的に生成するものです。そこで教師が語る言葉にはそれまで生きてきて学んだこと、経験したこと、感じたことのすべてが断片的には含まれている。それが何の役に立つのか、そんなことは教師にだって予見不能です。どうしてこの科目を履修することになったのかは学生にだってわからない。学んだことの意味がわかるのは、場合によっては何年も、何十年もあとになることさえある。そういうものです。

スティーヴン・ジョブズは大学時代にたまたま「カリグラフィー(書法)」の授業を履修しました。どうしてそんな趣味的な授業を自分が毎週聴いているのか当時は理由がよくわからなかった。でも、何年か経ってスティーヴ・ウォズニアックと最初のマッキントッシュを設計したときに、フォントの選択と字間調整機能を標準装備として搭載したときに大学時代に「美しい文字を書く」授業を受けたこととの関連に気がついた。

授業がどういう教育効果をひとりひとりの学生にもたらすことになるのか、それは教師にも学生自身にも予見できません。もちろんシラバスに適当なことを書くことはできます。でも、シラバスを目を皿のようにして読んで履修科目を選ぶ学生なんて、実際にはいません。このコマが空いているからとか、友だちが受講しているからとか、この先生面白そうだからとか、試験がなくてレポートだけだからとか、そういう理由で履修科目を選んでいる。

私が在職中にとった統計でわかったことは「シラバス通りに授業をしているかどうか」ということと学生の授業満足度の間には統計的に有意な連関がないということでした。それ以外のすべての質問は学生の授業満足度と相関がありました。「時間通りに授業を始めるか?」とか「板書が見やすいか?」とか「十分な準備をして授業に臨んでいるか?」といった問いは満足度と相関していました。でも、全部の質問の中でただ一つだけ何の相関もない質問がありました。それが「シラバス通りに授業をしているか?」です。学生たちはシラバス通りに授業が行われることに特段の重要性を認めていない。それはアンケートの統計的処理の結果でも、僕の教壇での実感でもそうです。

だから、「シラバスを細かく書け」という文科省からの命令を僕は無視しました。だって意味がないんだから。いやしくもこちらは学者です。論理的にものを考えるのが商売です。シラバスを事細かに書くと授業効果が上がるということについて実証的根拠があるなら、それを示してくれればいいだけの話です。それを示さずに、もっと細かく書けとか英語で書けとか同僚の教員同士でチェックし合えとか、どんどん作業を増やしてきたのです。

僕が教務部長のときにうちの大学のシラバスに「精粗がある」という理由で助成金の減額が告げられました。これは教育行政として自殺行為だと僕は思いました。シラバスを書かせたかったら「それには教育効果がある」という理由を示せばいい。何の教育効果があるのか命令している文科省が知らない作業を現場に頭ごなしに命令して、違反者に処罰を課す。それも「助成金の減額」という「金目の話」に落とし込んできた。僕はこれを「教育行政の自殺」だと言ったのです。仮にも大学教育ですよ。文科省は「大学の教員というのは『金を削る』と脅したら意味がない仕事でも平気でやる生き物だ」という人間観を公然と明らかにしているわけです。財務省あたりが言うならわかりもするが、教育行政を担当する省庁が「人間は金で動く」という人間観を本人も信じ、人にも信じさせようとしていることを少しは恥ずかしいと思わないのか。まことに情けない気持ちがしました。

シラバスは氷山の一角です。大学人全体がこういうやり方にいつの間にかなじんでしまった。意味がないとわかっていることでも、「文科省がやれと言ってきたから」というだけの理由でやる。意味のないことのために長い時間をかけて会議をして、分厚い書類を書いて、教職員たちが身を削っている。腹が立つのはそれが「大学における教育研究の質を高めるため」という大義名分を掲げて命じられていることです。教員の教育研究のための時間を削って、体力を奪っておいて、どうやって教育研究の質を上げようというのです。

問題はこの理不尽に大学人が「なじんでいる」ということだと思います。仮にも学術を研究し、教育している人たちが「理不尽な命令」に対して、「逆らうと金がもらえないから」というような俗な理由で屈服するということはあってはならないんじゃないかと僕は思います。無意味なこと、不条理なことに対して耐性ができてしまって、反応しなくなったら、悪いけど学者として終わりでしょう。目の前で明らかに不合理なことが行われているのに、「いや、世の中そんなもんだよ」とスルーできるような人間に科学とか知性とかについてっ僕は語って欲しくない。

今、日本中の大学でやっていますけれど、評価活動というのはナンセンスなんです。何度も申し上げますけれど、無意味なんです。これは自らの失敗を踏まえて申し上げているんです。神戸女学院大学に教員評価システム導入の旗振りをしたのは僕です。当時、評価に関するさまざまなセミナーや講演に出ました。製造業の人から品質管理についての話も聞きました。そういう仕組みを大学にも導入すべきだと、もっとビジネスライクに大学のシステムを管理しなければいけないと、その頃は信じていたのです。でも、はじめてすぐに失敗だということに気づきました。

僕が考えたのは、大学内の全教員の研究教育学務での活動を数値化して公表し、それに基づいて教員の格付けを行い、予算配分や昇級昇格に反映させるというものでした。さすがに教授会では昇級昇格に反映させるという僕の案は否決されましたけれど、教員たちの評価を各学科・部署の予算配分に反映させるというところまでは同意をとりつけました。

僕は教員の個人的な評価なんて簡単にできると思っていたのです。教育だったら、担当クラス数とか、ゼミで指導している学生数、論文指導している院生数などを数値化して、それを足せばいい。研究だったら年間にどれくらい論文を書いているか、レフェリー付きのジャーナルに書いているのか紀要に書いているのかで点をつける。学務は管理職なら何点、学部長なら何点、入試委員なら何点、というふうに拘束時間の長さや責任の重さで配点を変える。それを電卓一つで叩けば年間の教員の活動評価なんか出せると思っていたんです。でも、それが短慮でした。

配点を決める委員会でいきなり引っ掛かったのが著作でした。単著一つで何点と決めるときに、同僚から待ったがかかった。「年間5冊も6冊も書き飛ばした本と、20年かかって書いた1冊では価値が違う。それが同じ配点というのはおかしい」と言われた。これはおっしゃる通りなんです。年間5,6冊書き飛ばしているというのはもちろん僕のことなんですが、その1冊と、その先生が20年かけて書き上げた畢生の労作d1冊を同点にするのはおかしいと言われたら、たしかにおかしい。でも、そう言われたら全部そうなんです。授業を何コマ担当しているかと言っても、「ウチダ君のように何の準備もしないで、その場で思いついた話をぺらぺら漫談のようにして90分終わらせる教員」と何時間も真剣に下準備をしてから教場に出かける教員の1コマが同じ1コマとして扱われるのは不当である。内容の違いを配点に反映させろと言われたら、こちらはぐうの音もありません。ほんとうなんだから。

何より、気の毒だったのは、教員たちの実際の働きや貢献度を公的な立場から採点することを求められた方々です。だって、そういう人たちはすでに学部長とか学長とかしているわけです。そういう役職に選ばれる人たちというのは教育面でも学生の面倒見がよくて、研究でも高いアクティヴィティを誇っている方々です。そういうただでさえ忙しい人たちに同僚の査定をするという余計な仕事を押しつけることになった。評価活動というのは、そもそも研究教育を効率的に行い、質の向上を果たすために導入したものです。でも、やってみてわかったのは、そんなことのために査定システムを考案したり、合意形成をもとめて会議をしたり、あれこれ書類を書いたりしていたら、それは全部研究教育学務のための時間に食い込んでくるということでした。評価コストは評価がもたらすベネフィットを超える。研究教育の向上のための評価が研究教育の劣化をもたらすという事実に、僕は評価活動をはじめて半年ほどで気がつきました。

僕が教員評価にこだわったのは、教員の中に、あきらかに給料分の働きをしていない教員たちがいたからです。ろくに仕事をしないで高給を食んでいる人たちが手を抜いているせいで、学務の負担が他の教員に回ってくる。さぼる教員のせいで、他の教員たちの研究教育の時間が削られている。それがどうしても許せなかった。そういう怠け者をあぶり出して、仕事をさせなくちゃいけないと思って、教員を管理する仕組みを考えたのです。

でも、これはまったく失敗だった。だって、怠け者の教員というのは評価しようとしまいと関係ないからです。休日を返上してセクハラ講習会を開いても、セクハラ教員はそういう講習会には来ないのと一緒です。絶対にセクハラなんかしそうもない人たちだけが集まってまじめに研修している。そういうのは時間の無駄なんです。働かない人は評価システムがあろうがなかろうが働かない。せいぜい給料分ぎりぎりしか働かない。でも、評価システムを制度設計し、立ち上げ、維持運営するために、これまで研究教育で高い成果を上げて来た教員たちの時間と労力を奪うことになった。この人たちはこれまでもらう給料の何倍もオーバーアチーブしていたわけですけれど、その人たちの足をひっぱることになった。だから、評価システムの導入は、トータルでは、大学全体の研究教育のパフォーマンスを下げることにしかならなかった。

国立大学の場合はもっと悲惨です。独立行政法人化から後、日本の大学の学術発信力は一気に低下しましたけれど、それも当然なんです。法人化があって、学部改組があって、カリキュラム改革があって、そこに自己評価や相互評価が入ってきて、次はCOEだとかRU11だとかグローバル人材教育とか、ついには英語で授業やれとか言われて、この15年くらいずっとそういうことに追い回されてきたわけです。そういう仕事を担当するのは、どこの大学でも30代40代の仕事の早い教員たちです。頭がよくて手際のよい教員たちが、そういう「雑務」を押しつけられた。会議とペーパーワークだけで研究者として脂の乗り切る10年間を空費してしまったという教員が日本中の国立大学に何百人となくいるのです。この人たちがその時間を研究教育に充てていたら、どれぐらいの学的達成が蓄積されたか、それを思うと失ったものの大きさに言葉を失います。

今は定年前に辞める教員がどこの大学でも増えています。専任教員として教えなくても、授業だけすればいいという特任教員の給与や著述での収入だけで生活が成り立つという人はそういう方を選んでしまう。だって、あまりにばかばかしいから。グローバル人材育成と称して、今はどこでも英語で授業をやれというプレッシャーがかかっている。どう考えても、日本人の学生相手に日本人の教員が英語で授業やることに意味があるとは思えない。

実際にそういう大学で働いている人に聞きましたけれど、オール・イングリッシュで授業をするとクラスがたちまち階層化されるんだそうです。一番上がネイティヴ、二番目が帰国子女、一番下が日本の中学高校で英語を習った学生。発音のよい順に知的階層が出来て、いくら教員が必死に英語で話しても、ネイティヴが流暢な英語でそれに反対意見を述べると、教室の風向きが一斉にネイティヴに肩入れするのがわかるんだそうです。コンテンツの当否よりも英語の発音の方が知的な位階差の形成に関与している。

これも英語で授業をしている学部の先生からうかがった話ですけれど、ゼミの選択のときに、学生たちはいろいろな先生の研究室を訪ねて、しばらくおしゃべりをする。その先生のところに来たある学生はしばらく話したあとさらっと「先生、英語の発音悪いから、僕このゼミはとりません」と言ったそうです。その方、日本を代表する批評家なんですけれど、学生はその名前も知らなかった。

そういうことが今実際に起きているわけです。ではなぜこんなに英語の能力を好むというと、英語のオーラルが教員の持っている能力の中で最も格付けしやすいからです。一瞬で分かる。それ以外の、その人の学殖の深さや見識の高さは短い時間ではわからない。でも、英語の発音がネイティヴのものか、後天的に学習したものかは1秒でわかる。

『マイ・フェア・レディ』では、言語学者のヒギンズ教授が出会う人たち一人一人の出自をぴたぴたと当てるところから話が始まります。『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショーの『ピグマリオン』という戯曲です。ショーはヒギンズ教授の口を通して、イギリスでは、誰でも一言口を開いた瞬間に出身地も、職業も、所属階層も分かってしまうということを「言語による差別化」(verbal distinction)としてきびしく告発させます。ヒギンズ教授は誰でも口を開いて発語したとたんに、その出身地も学歴も所属階級もわかってしまうというイギリスの言語状況を批判するためにそういう曲芸的なことをしてみせたのです。すべてのイギリス人は同じ「美しい英語」を話すべきであって、口を開いた瞬間に差別化が達成されるような言語状況は乗り越えられねばならない、と。だから、すさまじいコックニー訛りで話す花売り娘のイライザに「美しい英語」を教えて、出身階層の軛から脱出させるという難事業に取り組むことになるのです。

でも、今日本でやろうとしているのは、まさにヒギンズ教授がしようとしたことの逆方向を目指している。口を開いた瞬間に「グローバル度」の差が可視化されるように英語のオーラル能力を知的優越性の指標に使おうとしているんですから。それは別に、英語がネイティヴのように流暢に話せると知的に生産的だからということではなく、オーラル能力で階層化するのが一番正確で、一番コストがかからないからです。

日本中の大学が「グローバル化」と称して英語教育、それも会話に教育資源の相当部分を費やすのは、そうすれば知的生産性が向上するという見込みがあるからではないんです。知的な生産性という点から言ったら、大学ではできるだけ多くの外国語が履修される方がいい。国際理解ということを考えたら、あるいはもっと現実的に国際社会で起きていることを理解しようと望むなら、英会話習得に教育資源を集中させるよりは、外国語履修者が中国語やドイツ語やトルコ語やアラビア語などに散らばった方がいいに決まっている。でも、そういう必要な外国語の履修については何のインセンティブも用意されていない。それは、英語の履修目的が異文化理解や異文化とのコミュニケーションのためである以上に格付けのためのものだからです。

TOEICはおそらく大学で教えられているすべての教科の中で最も格付けが客観的で精密なテストです。だからみんなそのスコアを競うわけです。競争相手が多ければ多いほど優劣の精度は高まる。前に申し上げた通りです。だから、精密な格付けを求めれば求めるほど、若い人たちは同じ領域にひしめくようになる。「誰でもできること」を「きわだってうまくできる」ことの方が「できる人があまりいないこと」を「そこそこできる」ことよりも高く評価される。格付けに基づいて資源分配する競争的な社会は必然的に均質的な社会になる。そうやって日本中の大学は規格化、均質化し、定型化していった。

若い人たちは今でも地方を出て東京に行きたがります。そして、ミュージシャンだったり俳優だったり、カメラマンだったり、デザイナーだったり、とにかく才能のある人が集まっているところに行きたがる。それは精密な査定を求めてそうしているのです。故郷の街にいて、どれほどまわりから「町で一番才能がある」と言われても、それでは納得できないのです。もっと広いところで、たくさん競争相手がいるところに出てゆきたい。正確な格付けを求めてそうするのです。競争相手がたくさんいる領域に突っ込んでいって、低い格付けをされても、それは自分のようなことをしている人間が自分ひとりしかいない環境で、格付けされないでいるよりはまだましなんです。狭いところで「あなたは余人を以ては代え難い」と言われることよりも、広いところで「あなたの替えはいくらでもいる」と言われる方を求める。それは自分の唯一無二性よりも自分のカテゴリー内順位の方が自分のアイデンティティを基礎づけると彼らが信じているからです。「そんなことをしているのは自分しかいない」という状態が不安で仕方がないのです。「みんなやっていることを自分もやっている」方がいいのです。たとえどれほど低くても、精度の高い格付けを受けている方が安心できるのです。これは現代日本人が罹患している病です。そして、日本の大学もまたそれと同じ病に罹っている。

大学に格付けを要求するのは社会全体からの要請です。あなたの大学がどういう大学であるのかは、「他の大学を以ては代え難い」ところの唯一無二の個性によってではなく、日本のすべての大学を含む単一のランキングにおいて何位であるかによって決定される、そういう考え方に日本中が同意しているのです。そのせいで、大学の多様性が失われた。本当にユニークな研究教育活動は比較考量ができませんから、格付けすると「評価不能」としてゼロ査定される。研究教育活動がユニークであればあるほど評価が下がるという仕組みがもう出来上がっているのです。そのせいで日本の大学の学術的発信力は致死的なレベルにまで低下している。しかし、文科省はその学術的発信力の低下を「グローバル化が不十分だから。実学への資源投資が不十分だから」という理由で説明して、さらに全国の大学を均質化し、規格化し、競争を激化させ、格付けを精密にしようとしている。その結果、ますますユニークな研究教育のための場所は失われている。

そんなことをしているんですから、日本の大学に未来がないのは当然なんです。多様なできごとが無秩序に生起している場所でのみ、それらのうちで最も「生き延びる」確率の高いものが際立ってくる。「ランダムさのないところに新たなものは生じない」(Without the random, there can be no new thing)。これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。日本の大学教育はまさにその逆の方向に向かって進んでいる。でも、すべてが規格化され、単一の「ものさし」で比較考量され、格付けされるところからは、いかなる新しいものも生まれません。

教育の目的というのは、一言にして尽くせば、どうやって若い同胞たちの成熟を支援するか、それだけです。格付けとは何の関係もない。精密な格付けをすれば、若い人たちがどんどん知性的・感性的に成熟するというエビデンスがあるというのなら、大学からイノベーティヴな発見が次々世界に向けて発信されているというエビデンスがあるというのなら、格付けしたって結構です。でも、そんなエビデンスはどこにもありません。あるのは、大学が評価や査定や格付けにかまけてきた間に日本の大学の学術的発信力は先進国最低レベルに低下したという冷厳な事実だけです。

今、子どもたちの貧困が大きな社会問題になっていますけれど、貧困層の再生産には残念ながら子どもたち自身も消極的には加担してるんです。それは貧困層の人たちに対しては学校でも地域社会でも、「貧乏人らしくふるまえ」という強いプレッシャーがあるからです。貧しい人間は身を縮めて生きるべきだ、イノベーションを担ったり、リーダーシップをとったりすることは許されない。そういう考え方を持つ人が多数派です。そして、貧困層自身も、そういう社会観を自身のうちに内面化してしまっている。自分は貧しいのだから、楽しそうに生きてはいけない。明るくふるまってはいけない。新しいアイディアを提出してはいけない。リーダーシップをとってはいけない、そういう外部からの禁圧をそのまま内面化してしまっている。

以前、ある子育て中の母親がそう訴えていました。その人はシングルマザーで、確かに生活は苦しい。本当なら、親が貧しいことと子どもたちがのびのびと暮らすことの間には関係ないはずなのだけれど、貧しいというだけで、子どもたち自身が委縮してる。貧しい人間はにこにこしてはいけないと思っている。貧しくて不幸だという顔をしなくてはいけない。周囲がそういうふるまいを期待しているので、子どもたちはそれに応えてしまっているんじゃないか、と。

これは例えば生活保護を受けてる人がパチンコやったら許さないとか、芝居や映画見に行ったら怒るとかいうのと同じですね。主婦が子どもを保育園に預けて演劇見に行ったら、「ふざけるな」と怒鳴る人がいる。意地悪なんです。それが社会的なフェアネスだと本気で思って、意地悪をする。異常ですよ、皆さん。でも、日本はもうそういう異常な人が自分のことを「異常」だと思わないくらいに異常な社会になっているんです。

同じことが大学生自身にも起きている。低いランク付けをされると、自動的に自己評価も下方修正してしまう。あなた方はランクが低いんだから、もっとおどおどしなさい、もっといじけなさいって言われると、大学生の方も納得してしまって、おどおどして、いじけるようになる。格付けのせいで、いじけて、怯えて、自己評価を下げて、自分には何もたいしたことなんかできやしないと思っている若者たちを今の日本社会は大量に生み出しています。そんな人たちがどうして未来の日本を支えてゆくことができるでしょう。

冒頭に結論を申し上げましたけど、とにかく日本の大学は、今行われているような仕組みを是認されるのであれば、先はないです。日本の大学は滅びます、遠からず。どこかで抵抗するしかありません。「もういい加減にしてくれ」って、声を上げるべきです。文科省だってそんなにバカばかりじゃない。官僚の中には過去25年間の教育行政がことごとく失敗だったということを素直に認める人だってきっといると思います。でも、役人はその性として「間違えました」「すみません」とは言いません。

だから、大学側で声を合わせて言うしかないんです。国立大学の先生は立場上なかなか声を出しにくいかも知れませんけれど、でも声を出して欲しい。どうしたら教職員がイノベーティブになれるか。どうしたらキャンパスの中がもっと明るくなるか。教職員も学生も笑顔でいて、知的な刺激に満ちている環境をどうやって作るか。それについて考える事が最優先の課題だと僕は思います。

このまま手をつかねていたら、日本の大学は滅びます。皆さんが生活を犠牲にして、命を削って、大学のフロントラインを死守していることを僕はよく存じていますし、それに対して敬意も持ってます。でも、生身の人間ですから、無理は効きません。どこかで燃え尽きてしまう。だから、燃え尽きる前に、声を上げて欲しいと思います。「もういい加減にしろ」って。ちゃぶ台をひっくり返して頂きたい。日本中の学校で先生たちが一斉にちゃぶ台返しをしてくれたら、日本の未来も大学教育も救われるんじゃないかと思ってます。どうぞ頑張っていただきたいと思います。

ご清聴ありがとうございました。

(2016年5月19日、国立大学教養教育実施組織会議特別講演・サンポートホール高松にて)

執筆: この記事は内田樹さんのブログ『内田樹の研究室』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2017年11月11日時点のものです。

―― やわらかニュースサイト 『ガジェット通信(GetNews)』

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