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“関節技の鬼”藤原喜明「プロレスはセックスみたいなもの。裸のつき合いは深い」――最強レスラー数珠つなぎvol.15

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「藤原敏男先生の紹介じゃなきゃ、こんな取材、受けねーよ」

藤原喜明は開口一番、そう言い放った。背筋が凍った。どうしよう。どエラいところへ来てしまった。逃げ出したい気持ちをグッと堪え、取材を進める。子供の頃の話、プロレスとの出会い、カール・ゴッチとの思い出、飼っていた犬の話、趣味の陶芸の話――。分刻みに、藤原の表情が和らいでいった。ああ、なんて素直で分かりやすい人なんだろう。

「ちょっと待ってて」と言って席を外し、しばらくすると大量のスクラップブックを抱えて戻ってきた。トレーニングの記録、新聞の切り抜き、白黒写真の数々。「俺も写真、撮ったんだよ」と、アルバムを広げる。女性のヘアヌードだ。めくると、なぜか藤原も一緒に全裸で写っている。「このネエちゃん、ムスッとしてっからさ。俺も脱いだわけよ。一人でスッポンポンじゃ、嫌だろうから。そしたらほら、ニッコリしてるだろ?」。この豪快さと無邪気さを前に、ニッコリしない人間がいるだろうか。

関節技の鬼――。その異名とはまた別の、藤原喜明の素顔はとても温かかった。

【vol.15 藤原喜明】

――ご出身は、岩手県の農家なんですね。

藤原喜明(以下、藤原):農家の長男ですよ。親父はとび職だったんだけど、酒乱でね。ぶん殴られてばっかりいた。いつかこの親父を殴ってやろうと思って、相撲ばっかり取ってたよ。無口だったけど、喧嘩はふっかけられればしたかな。小学校6年くらいのとき、中学生が5、6人でやってきて、「お前、生意気だ」って学校の近くの墓に引っ張られてさ。先生が真っ青になって「やめろー!」って止めにきたりしてな。でも、怖いと思ったことはなかったよ。根拠のない自信というかね。

――中学は相撲ではなく、剣道部。

藤原:柔道部に入ろうと思ってたんだよ。道場に「道」って書いてあったから、ここだと思って入ったら、柔道じゃなくて剣道だった。まあ、同じ「道」だからいいか、どうでもいいやって(笑)。アホだよなあ、昔から。中学校1年のときに、体が大きいから狙われてたのかね。上級生に屋上まで引っ張り出されてさ。果たし合いみたいな。投げられて、肩固めされて、逃げようと思っても逃げられなかった。痛くて動けないんだけど、「いまのは一体、なんなんだ!?」と思ったんだよ。

――それが関節技との出会いですか?

藤原:そうそう。工業高校の機械科だったから、応用力学が好きでね。応用力学と機械工作と体育は5だったんだよ。関節技は力学だからね。力学というのは、つまりテコだ。これは面白いぞと。

――力学が好きだったから、関節技が好きになった?

藤原:いや、そうじゃないんだ。子供の頃、俺らのルールで「参った相撲」っていうのがあったんだよ。講堂の板の間で組んずほぐれつやって、どちらかが参ったって言うまでやる。同級生で二人大きい奴がいたんだけど、その内の一人と毎日のようにやってた。いま思うと、寝技だな。そういうのが好きだったんだろうね。

――プロレスラーになりたいと思ったのはいつ頃ですか。

藤原:小学校5、6年の頃、学校で映画鑑賞会があったんだよ。フィルムとフィルムを取り替える時間なのかな、10分くらいニュース映画っていうのが流れて。そこで力道山先生が映ったんだ。衝撃だったよ。「なんなんだ、これは!? こんなものが世の中にはあるのか!」って思って。これしかない、みたいなね。それが始まりだと思うよ。

――高校を卒業して、上京したのはなぜですか。

藤原:百姓になりたくなかったんだよ。長男だから普通は農業をやらなきゃいけないんだけど、親父には毎日ぶん殴られてたしな。親父もお袋も、一日中、一生懸命働いてても貧乏だったしね。「オラ東京さ行くだ」ってやつだよ。でもストレートに東京に出る自信がなかったから、埼玉に就職したんだ。川越の小松インターナショナルっていう会社。従業員が1000人くらいいた。まあまあ、大きいよね。

そこで、ウエイトトレーニング部を設立したんだよ。47人だったかな。お金を集めてさ。すごいだろ? 18歳だよ? 吃音なのにさ。総務部に行って部長と話してさ、そしてベンチとか腹筋台とか買ったんだけど、当時の通信販売って注文してから配達まで2ヶ月くらいかかるの。みんなから、「金どうした!」「騙された!」とか言われてさ(笑)。大変だったんだよ。

――20歳のとき、会社を辞めてコックさんになった。

藤原:みんなチンタラチンタラ働いててね。残業したりさ。んなこた、やってられねーやと思って辞めたんだよ。とは言え、飯食わなきゃいけない。タダで食える方法はないだろうか? コックだ! っていう。バカだろ(笑)? けど、コックになったら、営業時間が8、9時間でしょ。それに掃除だとか仕込みだとか入れたら、勤務時間が13、14時間なんだよ。今度は魚を覚えようと、横浜の中央卸売市場に辿り着いた。市場から近いスカイジムっていう、ボディービルのジムに入ったんだよ。

――プロレスラーになるためですか?

藤原:そうそう。トレーニングしてたら、元プロレスラーで、ジムの会長の金子武雄さんに「プロレスやんねーか」って言われてさ。一週間、時間もらって、お願いしますっていうことで、プロレスラーを目指すことになったわけだ。半年くらい経って、「新日本プロレスと、全日本プロレスと、国際プロレス。どこに行くんだ?」って聞かれたんだけど、俺は新日本プロレスを選んだんだよ。新日本だったらチャンスがあるかもしれないと思って。けど、「国際プロレスもいいぞ」って言われてさ。きっと国際プロレスに入れたかったんだろうな。社長の吉原(功)さんと仲が良かったから。

――新日本プロレスにチャンスがあると思ったのは、新しい団体だったから?

藤原:そうだね。それに、小さい奴ばっかりだったんだよ。俺が新日本プロレスに入ったときは、猪木さんの次だったんだ。猪木さんが189cmで、俺が185cmあったから。1972年11月2日に、金子さんに連れられて六本木に行ったら、猪木さんがいてね。当時、猪木さん29歳だったんだね。そりゃもう、カッコよかったよ。

――入門してから10日でデビューされました。すごい才能ですね。

藤原:いやいや、才能というか、金子先生のところで寝技ばっかりやってたから。それに人数が少なかったしね。第3試合で、相手は藤波辰巳。その試合を豊登(道春)さんが見てて、「お前、初めてじゃないだろ? 国際プロレスかどこかにいただろ?」って聞かれて、「初めてです」って言ったら信じてもらえなかった(笑)。

――華々しくデビューしたにも関わらず、その後は前座の時代が続きます。

藤原:付き人を10年以上やったからね。山本小鉄さんの付き人を2年くらいやって、25歳くらいから猪木さんの付き人を10年くらい。俺は几帳面だから、付き人に向いてたんだよ。鞄はキチッとしてるし、洗濯もキチッとやるし、気が利くしな。猪木さんは、カバン持ちの俺が言うのもなんだけど、手のかからない人だった。エラいなと思ったのは、パンツだけは自分で洗うんだよね。

――35歳まで前座をやって、その一方で道場では関節技に夢中になった。リングの上と、練習とのギャップで悩んだことは?

藤原:んなもん、悩まないよ。好きなことやって、飯が食えて、酒が呑める。それだけで幸せだったよ。百姓だから、田舎にいたら朝から晩まで働くでしょ。だけどプロレスやってれば、酒が呑めて美味いもん食べられてさ。最高じゃん。

――もっと認められたいとは思わなかった?

藤原:本物は認められるっていう自信があったからね。

――どうしてそこまで関節技のスパーリングにのめり込めたのでしょうか。

藤原:好きだからだよ。道場で強ければ、デカい面ができるしな。プロレスラーって、先輩と後輩がキチッと決まってるわけだよ。だけど強ければ、先輩に「オイ!」なんて言われても、「なんだこの野郎!」って言い返せる。それだけの話だよ。

――道場破りをバンバン倒していたとか。道場破りは実際、多かったんですか。

藤原:そりゃそうだよ。猪木さんが「プロレスは世界一の格闘技だ」って言ったら、そうはいくかっていう奴が必ずいるわな。空手家が多かったな。

――空手のキックに対しても、関節技でやっつけた?

藤原:そうそう。でも勝ったと言っても、俺らのルールでだからね。ぶっ倒して、参ったって言わせればいいわけで。ぶっ倒して、参った、ギャーと言わせる。言わなきゃ、バキバキっとやる。ヤルかヤラれるかの世界だよ。ヤルったって、女とヤルんじゃないよ。

――(笑)。フロリダに住むカール・ゴッチさんのもとへ修行に行ったのは、どういった経緯ですか。

藤原:猪木さんに、「よくやってくれてるから、ご褒美をやる。なにがいい?」って言われて、迷わず「ゴッチさんのところに行きたいです」って答えたんだよ。ゴッチさんはそれまでにも新日本プロレスに来てたんだけど、もっと関節技を勉強したかったから。

――フロリダでの1日のスケジュールは?

藤原: ゴッチさんが朝10時に車で迎えに来てくれる。いつも愛犬のピットブルを連れて来て、必ず「入れてもいいか?」って聞くんだ。毎日聞くんだよ? だからいいって言ってんだろ! みたいなさ(笑)。紳士なんだよね。家でコーヒーを一杯飲んで、車で15分か20分くらいのところにあるゴッチさんの家に行くんだ。11時頃から14時、15時までコンディショニングをやって、終わったら赤ワインと水とオイルサーディン。赤ワインに氷と水を入れて、ガーッと飲む。これが酔うんだよ。汗かいてるから、ストレートで飲んだらぶっ倒れるよ。半分に薄めても、すぐ吸収されるから酔っ払うわけ。

酔ってもすぐに冷めるんだよ。冷めたら車で街の柔道場に行ってな。ブリッジだとか、関節技はこうやるんだ、みたいなことを延々とやるんだよ。毎日、10個とか20個とか技を教えてくれるんだけど、家に帰ってくると一つも覚えてない。これはダメだってんで、1日1つか2つ、頭の中に入れて、ノートに書いていったんだよね。しばらくしてからゴッチさんに、「実はこういうの書いてるんです」って言ったら、次の日からなんにも教えてくれなかった(笑)。

――「藤原ノート」と呼ばれるものですね。

藤原:そうそう。日本に帰ってから、前田(日明)なんかとスパーリングやりながら、ノートに書いたことを一つ一つ復習していってさ。全部復習するのに10年くらいかかった。1つ2つ分かると、パラパラパラっと分かるんだけどね。不思議なもんで。

――復刻版を読みましたが、あれを読めば関節技をマスターできますか?

藤原:はっきり言うと、見ただけじゃできない。でも、バカがいてよ。「ノートの通りにやったのに極まりません」って、そりゃ、お前が下手だからだよ(笑)。俺の教室に20年以上、来てた奴もいるんだけど、完璧な奴っていないからね。そんな簡単なもんじゃないよ。相当好きで、毎日考えながら、コツコツ20年も30年もやらないと。1回や2回、本を見ただけで分かるわけねーじゃん。

――でも、組長の関節技はこうなっているんだな、というのは理解できました。

藤原:そうなんだよ。結局、理屈なんだよ。力学なんだよね。俺の教室には総合(格闘技)の奴らも来るんだけど、早く勝ちたい、みたいなのがあるから、みんな力任せでな。結局は力比べになっちまう。だけど俺らのは、テクニックだからね。時間がかかるんだよ。

――佐山サトルさんもフロリダに行って、組長のアパートに居候したそうですね。佐山さんとの生活はいかがでしたか。

藤原:俺がフロリダに行って1か月か2か月くらいしてから、佐山もメキシコから来たんだよね。ゲッソリ痩せてな。あいつ上手いんだよ、持ち上げるの。「藤原さんのカレーライス食いたいな~。藤原さん、料理うまいからな~」とか言われると、「そうか? じゃあ、作ってやろうか」ってなるじゃん。「今日は肉食いたいな~。藤原さんのステーキ、うまいからな~」とかさ。結局あいつ、一回も作ったことねえよ(笑)。

関節技って、一対一だと、教えるのが難しいんだよね。「こうやるんだ」って言ったって、見えないだろ? だから、二人いたほうが分かりやすいんだよ。俺と佐山でやりながら、ゴッチさんが「ここちょっと違う」とか指導してくれて。けど、佐山とスパーリングしてて、俺が足首を押さえてバキバキっとやっちゃったんだよ。そしたらゴッチさん、「お前ら、ピットブルみたいな奴らだな」って。要するに、喧嘩っ早いというか、無茶苦茶だっていうかさ。それからはもう、スパーリングはやらせてくれなかったな。

――ゴッチさんはどんな方でしたか。

藤原:朝から晩まで、レスリングとコンディショニングのことしか考えてない人だよ。話もそればっかりだもんな。あれで人生楽しかったのかなあ? と思うんだけどね。動物園が好きでね。虎はなぜ強いのか、ジーッと見てるらしいよ。背伸びしてあくびなんかすると、「これだ!」って言って、プッシュアップの動きに取り入れたりとかな。虎はなぜ強いのかって、あれは生まれつき強いと思うんだよな(笑)。けど、あくまで「なぜ強いのか?」なんだよ。それに本をよく読んでて、哲学者みたいなことを言うんだ。カッコよかったよ。

――どんなところがカッコよかった?

藤原:臼田勝美が、ゴッチさんと銭湯に行ったらしいんだよ。臼田が後ろから付いてったらよ、ゴッチさんが「なんで後ろ歩くんだい?」って言ったんだって。「先生の前を歩くわけにはいきません」って言ったら、「練習中はお前の先生かもしれないけど、練習が終わったら友だちじゃないか」ってさ。臼田が感動して震えたって言ってた。カッコいいだろ? なかなか言えないよなあ。いまでもこうして話すと、ジーンとくるんだけどさ。

――組長とゴッチさんの関係、本当に素敵だなと思います。

藤原:俺らって、裸と裸で一緒に汗かいたり、くっついたりしてるわけだよ。ある意味セックスしてるようなもんなんだよな。だから離れていても、普通の友だち以上に、昔の愛人だったような、夫婦だったような、繋がりが深いんだよね。長いトレーニングで一緒に苦しんだり、体と体がくっついたり、汗と汗でビショビショになりながらさ。プロレスラーってそういう関係なんだよ。

前田なんかも50過ぎて、もう立派な社長なんだけど、会った瞬間40年前に戻っちゃうんだよ。ニコニコしてな。あの気難しい前田がだよ? 周りの奴らがみんな、ピリピリするんだけど。佐山だってそうだよ。佐山先生って呼ばれてるんだろ? なーにが先生だよ(笑)。まあ、考えてみると立派な先生なんだよな。けど何年かぶりに会っても、毎日会ってるような感覚なんだよね。お互いに認め合ってるしな。ちょっと間抜けだけど、こういうところは天才的だ、頑張ったんだろうなとか、いろいろな。

――この連載では、「強さとはなにか」を探っています。組長が思う強さとはなんですか。

藤原:強さったって、いろいろあるよ。お金の力とかな。政治力だとか、筋力だとか、持久力だとかな。勃起力だったりな。……これが言いたかっただけだけど(笑)。強さっていっぱいあるんだよ。でも強いっていうのは、いろんなルールに基づいてるから。将棋だってそうだろ? あれは決まりがあるから、勝ち負けが決まる。勝ち負けに関してはそうだけど、強さとはなにかって聞かれてもなぁ。

ちょっと答えは違うかもしんないけど、ルールに基づいて、勝ったもんが強いんだ。だけど、努力ばっかりじゃ強くなれないからね。努力で村一番にはなれても、日本で一番とか、世界で一番にはなれない。DNAだよ。努力しましたって言ったって、努力できるDNAかもしれないし。だから強いからって、偉いとは限らないよ。年取ると、いろんなことが分かってくる。ガンをやってから、余計にな。

――58歳のとき、胃ガンを患って手術をされましたね。

藤原:ステージ3だったからね。「あ、俺、死ぬんだな」って思った。どうせ死ぬんだったら、カッコよく死んでやろうと思ってな。4日目に抜糸してもらって、それから管いっぱい入れたまま点滴担いで、階段を上ったり下りたりしてさ。そしたら看護婦さんが驚くわけよ。ざまあみろ、俺はプロレスラーだ! まあ、残念ながら死ななかったけどな(笑)

抗ガン剤治療、大変だったんだよ。2年間、毎日飲んだからね。最初の8か月間は強烈なやつ。フラフラするし、目はかすむし、練習しても筋肉がつかないんだよ。新しい細胞ができないようにする薬だから。ガン細胞もできないかもしれないけど、筋肉もつかないんだ。いくらトレーニングしても力がつかない。けど、一回死んだ人間は強いよ。なにもおっかなくないしね。もう心の準備はできてるから。

――プロレス以外にも、絵画、陶芸、俳優業など、多才でらっしゃいます。すべての活動は繋がっているのでしょうか。

藤原:繋がってるとか、そういうことを考えてるわけじゃなくて、楽しいからやるの。それだけの話だよ。人生は一度きりじゃん。好きなこと、全部やったほうがいいよ。いま盆栽の本でも連載してるし、『週プロ』で身の上相談もやってるし、『プロレス/格闘技DX』で小説も書いてるし、忙しくて大変だよ。でも、面白いからやってるだけの話でね。人生は楽しく。ちょっとだけ厳しくな。

――プロレスとは、プロレスラーとは、どういうものでしょうか。

藤原:プロレスラーは、強くて当たり前。プラスアルファだよ。いくら「俺は強いんだ」って言ったって、お客さんがつまんないなと思ったら、二度と来てくれないからね。でもね、本物はやっぱり綺麗なんだよ。藤原敏男さんのハイキックだって綺麗だしな。本物は美しい。美しいから、お客さんが来る。

――いまのプロレス界はいかがですか。

藤原:俺の口からは言えないよ。まあ、俺らが教わったのとは、ちょっと違うかな。でもプロなんだから、お客が入れば正義なんだよ。

――最後に、次の最強レスラーを指名していただけますか。

藤原:前田は? あいつ、気難しいらしいぞ。ヘンなこと聞くと、すぐにカチンと来るから。

――前田日明さん……! 今度、UWFの本を出版されるそうですね。

藤原:UWFなあ。いろんな奴がなにも知らねーくせに、エラそうに書きやがって。嘘ばっかりだよ。俺らが糞だと言うんなら、あいつら銀バエだよ。糞に寄って稼ごうとしてる。だから前田が怒っちまってさ。ちゃんと俺が書くって言って。次のレスラー、前田しかいないな。

――ありがとうございました。

藤原の自伝『覚悟 人生60年、覚悟が生死をわけた!』(ビジネス社)に、カール・ゴッチが藤原に宛てた手紙の一部が掲載されている。

「貴君はまだ若い。わたしのように年老いてしまうとなにもうまくいかない。エラが亡くなってから、わたしはすべてのことに興味を失い、途方に暮れている。なにもする気が起きず、だれにも会う気になれない。ジャンゴがいてくれることを神に感謝しなければならない。ジャンゴもよくわかっていて、ずっとわたしのそばに寄り添っている。」(1995年12月28日)

「犬がいつもそばにいてくれればロンリーではない。わたしは七歳のころからいつも犬を飼ってきた。貴君もピットブルが好きだそうだな。ひょっとしたら、それはわたしの影響なのだろうか。ピットブルほどすばらしい犬はいないからね。フジワラよ、ベスト・コンディションを維持することを忘れるな。」(1996年5月19日)

「もう、犬も飼っていない。犬がいない生活は退屈で、気が狂いそうになるが、いまのわたしの腰のぐあいでは犬の世話もできなくなってしまったのだ。わたしの人生にひとつだけ残っているものは、ほんの少しのトレーニング時間だ。毎朝、六時三十分に起床し、一時間だけ運動をする。これができなくなったら、わたしもおしまいだろう。これはお別れの手紙ではないよ。みなさんによろしく。」(2002年7月22日)

ピットブルは凶暴な闘犬だ。しかし、飼い主への忠誠心が強い。スパーリングをしていた藤原と佐山に、ゴッチは「ピットブルみたいだな」と言ったという。その言葉は、無茶をするなという忠告であると同時に、忠誠心溢れる弟子への愛だったに違いない。

アメリカから帰国後、藤原はピットブルを飼い始めた。もちろん、ゴッチの影響だ。16歳まで元気に生きた愛犬マックスと、82歳でこの世を去った師のことを、藤原はいまでも懐かしそうに話す。

【PROFILE】藤原喜明(ふじわら・よしあき)

1949年、岩手県和賀郡(現・北上市)生まれ。黒沢尻工業高校を卒業後、会社勤めをしていたが、23歳のとき新日本プロレスに入門。入門して僅か10日でデビュー(対藤波辰巳戦)するも、前座生活が続く。31歳のとき、米フロリダのカール・ゴッチ道場への武者修行が実現。関節技の技術を磨き、帰国後は新日本道場で前田日明ら多くの若手レスラーを鍛え抜く。1984年、“長州力襲撃事件”をきっかけにブレイク。その後、UWFに参加し、UWF解散後は藤原組を旗揚げする。サブミッションレスリングに傾倒し、その実力者ぶりから「関節技の鬼」として知られる。

<取材・文/尾崎ムギ子(@ozaki_mugiko) 撮影/安井信介>


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