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“アブナイ男”カクタス・ジャックのクレージー・バンプ――フミ斎藤のプロレス読本#110【ECW編エピソード02】

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199X年

カクタス・ジャックは、家族が寝静まったあとベースメント(地下の物置き)に閉じこもってプロレスのビデオを――音量はできるだけ低くして――ひと晩じゅうながめているような少年だった。

本名はミック・フォーリー。ニューヨークのアッパー・ステートで育ったから、その気になればすぐにでも大都会に行くことはできた。でも、どうやったらプロレスラーになれるのかがわからなくて、とりあえずイーストコースト・エリアのインディーズでリング屋さんの手伝いをはじめた。

ある日、組み立て終えたばかりのリングの調子をたしかめておこうと思って、コーナーポストのてっぺんからリングのまんなかあたりをめがけて“尻もち状態”で落っこちたり、セカンドロープの上をカニ歩きしたりしていたら、ローカル・プロモーターのトミー・Dという男から声をかけられた。

それから1週間後、カクタスはピッツバーグにいた。レスリング・スクールのインストラクターは元レスラーのドミニク・デヌーチで、毎週土曜と日曜の2時間ずつのレッスンではサイド・ヘッドロックとかヒップトス(腰投げ)とかベーシックのなかのベーシックを教わった。

こんなかんたんなおケイコでほんとうにプロレスができるようになるかどうか疑問だった。けっきょく、タイツとシューズをつけてリングに上がるまでにまる2年くらいかかった。デヌーチ教室の同期でちゃんとデビューしたのはシェーン・ダグラスとレフェリーになったブライアン・ヒルデブランド(故人)のふたりだけだった。

インディペンデント・レスラーのはしくれになったカクタスは、ピッツバーグ、オハイオ、ウエスト・バージニアあたりのウィークエンド・ショーに顔を出すようになった。1987年春ごろのことだ。

流れ流れてたどり着いたテネシーでのリングネームはカクタス・ジャック・フォーリー。グリーンボーイ時代のカクタスには、まだ本名の尾っぽがついていた。ダラスWCCW(ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング)ではカクタス・ジャック・マンソンを名乗らされた。

マンソンとは、あの“マンソン教”のチャーリー・マンソンのことだ。アメリカ現代史のなかでももっともおぞましい猟奇殺人事件の犯人で、カルト宗教の教祖であるマンソンに仕立て上げられてしまったのは、単純にカクタスの顔つきと髪形がマンソンに似ているという理由からだった。

両手でピストルの形をつくって“バンバンッ”と叫ぶデモンストレーションは、マンソン時代に思いついたものだった。でも、カクタスは新興宗教ギミックにはあまりこだわりたくなかった。

少年時代、実家のベースメントで息を殺してみつめていたビデオの画面には“スーパーフライ”ジミー・スヌーカのスーパーフライが映っていた。

カクタスがどうしてもプロレスラーになりたかったのは、高いところから飛び降りてみたくてしようがなかったからだった。リング屋さんの手伝いをしていたころからクレージー・バンプの練習ばかりやっていた。

もちろん、流血だってへっちゃらだ。バンプのクッションになってくれるヒップと背中にはたっぷりと肉をつけておかなければならない。気がついたときにはけっこうな巨漢タイプになっていた。

テネシー、ダラス、アラバマと流れていくうちにWCWからスカウトの手が伸びてきた。クレージー・バンプがそれなりに評判になって“ビーチ・ブラスト”“ハロウィン・ヘイボック”といった大舞台ではスティングやベイダーを相手にテキサス・デスマッチをやらされた。

お客さんを喜ばせようと思って、硬いコンクリートのフロアでお得意のクレージー・バンプをとりつづけたけれど、カクタスはWCWのリングではハッピーになれなかった。専属契約を交わし、それなりの年俸をもらっていたが、あの息苦しい空間にはどうしてもいたくなかった。

クレージー・バンプにはちいさなライブの温度が似合う。“アブナイ男”カクタス・ジャックは、そこにいることのフィーリングを共有できて、痛みを感じてくれる観客のまえでだけバンプをとる。

※文中敬称略

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦


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