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死者を蘇らすことに成功した男への哀悼の書『ジョージ・A・ロメロ』ゾンビという発明

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ジョージ・A・ロメロが死んだ。

ゾンビの父、キング・オブ・ザ・デッド、モダンホラーの帝王などなど、ロメロを称する言葉は様々あるが、ともかく1978年に発表した『ゾンビ』(原題:Dawn of the Dead)の監督として、その名を映画界へ永遠に刻み込んだ。ファンにはいまさら説明するまでもないが、ロメロは『ゾンビ』を撮る10年前、その原型とも言える作品の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』で監督デビューしている。

何らかの原因によって墓場の下から死者が蘇り、生きた人間の肉を求めて彷徨いはじめる。ゾンビに噛み殺された者は、やがて自分もゾンビとなって、同じことを繰り返す。ゾンビはすでに死んでいるので、簡単に倒すことはできない。その動きを封じるためには、脳を破壊するしかない──。

第1作目で提示された設定は、そのままゾンビの定義となった。ロメロはその後、いくつか別テーマのホラーを撮ったり、ときにはロマンチック・コメディなど撮ることもあったが、それでもほぼ生涯を通じてゾンビものばかりを撮り続けた。本年7月の訃報を受けて洋泉社より緊急出版された本書『ジョージ・A・ロメロ』は、そんな彼の功績を讃える哀悼の書だ。


本書のほぼ全編は、ホラー映画に造詣の深い山崎圭司と、ゾンビ映画研究の第一人者である伊東美和の対談によって構成されている。作品論はもちろんのことながら、その対話はロメロの哲学や人柄にまで及び、まことに興味深い。また、篠崎誠、大畑創、井口昇、継田淳といった、ホラー映画だけにとどまらない活躍をみせる監督たちも、各人がロメロ監督から受けた影響を語っており、これも読み応えがある。ラストには、ロメロの熱烈なファンであり、テレビゲーム『バイオハザード2』のコマーシャルをロメロが撮影する際に同行した経験もあるノーマン・イングランドの貴重な思い出(翻訳は高橋ヨシキ+柳下毅一郎!)まで収録されているという豪華さだ。

ゾンビという発明
映画において「ゾンビ」がひとつの発明だったのは、ホラー映画を撮りたい青年たちに希望の光を投げかけたことだ。それまで、ホラーを撮るにはそれなりの予算と技術が必要だった。ドラキュラを撮るなら古城をロケ地にしたいだろうし、狼男はその造形にお金がかかる。フランケンュタインを蘇生させる装置なんてどうやって作ったらいいだろう? 異形のものや異世界を構築するには、とにかくお金がかかるのだ。

ところが、ゾンビ映画ならほとんどお金をかけずに撮ることができる。役者の顔を青白くペイントし、血糊を垂らす。衣装はどこにでもあるネルシャツを切り裂き、泥をこすりつければいい。舞台も日常の景色で十分だ。スーパーマーケットでゲリラ撮影をしたら支配人に怒られてしまうだろうけれど、そんなの映画青年たちには勲章みたいなものだ。

篠崎誠監督も、15歳のときに見た『ゾンビ』で「青春が変わった」と言う。『ゾンビ』の衝撃が篠崎少年を突き動かし、中学最後の春休みに友達と5分程度のパイロット版を撮ったのだとか。

〈巨大なスーパーマーケットはなかったので、籠城先を近所の某大手銀行の屋上に変えた。隣のマンションから雨どいを伝わって屋上に出た。立派な不法侵入だ。中学生とはいえ、8ミリカメラと一緒に空気銃まで持っていて(銀行強盗と思われても仕方がない!)、見つかったらなんと言い訳するつもりだったのか。何も考えていなかった。〉(P.14より)

かつて、ブルース・リーの『燃えよドラゴン』(1973年日本公開)が大ブームになったとき、日本中の映画少年がその真似をした。上半身裸になるだけでドラゴンに変身できるからだ。赤い絵の具で頬に3本の筋でも描けば、なお良し。それから6年後、『ゾンビ』が公開されると同じ現象が起こった。同級生の顔を青く塗って、ゾンビごっこを8ミリフィルムに収めた。『ゾンビ』は、映画を撮りたい人たちと、映画そのものの距離をグッと縮めてくれたのだ。

土葬されることの意味

ここで、自分の話をさせてほしい。ぼくは『ゾンビ』のことを考えるとき、いつも思い出す光景がある。それは両親の田舎で見た土葬の風習だ。日本では、一般的に人が死んだら火葬にして、燃え残った遺骨を墓地へ納める。しかし、うちの両親の実家がある福島県の某地域では、土葬が当たり前だった。

ぼくが中学生のとき、田舎の曽祖母(ひいばあちゃん)が死んだ。両親に連れられ福島まで行き、葬式に出た。農家の屋敷の広い和室で坊さんがお経を読む。それが終わると、親族の老婆たちが集まって畳の上で輪になり、直径2メートルくらいある数珠を囲み、それをグルグル回し始めた。おそらく往生した婆様の冥福を祈っているのだろうと思うが、本当のところはわからない。だいいち、ぼく自身はその光景を見ていない。なぜ見ていないかというと、ぼくはそのときすでに屋敷から連れ出され、2キロほど離れたところにある墓場へ向かって歩いていたからだ。

葬式の途中で、伯父さんに「アキヒト、お前、馬サやれ」と言われた。急にそんなことを言われても何のことやらわからない。どういうことか尋ねてみると、仏様が迷わずあの世へ行けるように、馬丁が馬を引いて葬儀の隊列を墓場まで先導するのだという。本来なら馬は小学生以下の子供の役目だそうだが、あいにくそのときは親類に適齢の子供がいなかったので、すでに中学生になっていたぼくに白羽の矢が立った。

握り飯を背中にくくり付け、馬丁役のおじさんがぼくの手を引いていく。葬儀の隊列に見られると仏様が成仏できなくなると言って、隊列よりもずっと早くんに出発した。そして林の奥にある墓場に着くと、そこでは墓掘りさんが墓穴を掘って待っていた。完全に死を覚悟しましたね。ああ、おれは一緒に埋められるのか、と。

もちろんそんなことはなく、馬はただの儀式であり、ひいばあちゃんの棺桶だけが穴に埋められた。ただ、この一連の儀式のなかで強烈に覚えているのが、墓掘りさんのつぶやいた一言だった。

「前の爺さんの骨が出てきたぞ」

このとき、中学生なりに「ああ、土葬ってそういうことか」と理解した。遺体をそのまま土に埋めるとやがて腐敗し、虫や微生物がその組織を食べて、骨だけが残る。そうなった頃に掘り返して骨壺に詰め、あらためて祀るのだ。火葬は、その工程を効率化するために生まれた近代の手段に過ぎない。

ロメロというか、アメリカでゾンビというキャラクターが生まれたのは、キリスト教の文化が背景にあることは間違いない。日本の一部地域での土葬は遺体を骨にするために行われるが、キリスト教圏では死後の復活が信じられており、火葬という選択肢は選ばれにくい。そのため土葬するのだが、腐敗されては復活できないので、エンバーミング(防腐処理)を施す。だから、死者が蘇るというアイデアはどことなく現実味のある恐怖として迫ってきたのだ。

最後に、ふたたび篠崎誠監督の言葉を引用する。

〈ロメロのような監督はもう二度と現れないだろう。ロメロが再び生き返ることもない。人が生き返ってくるのは映画の中だけなのだ。しかし、ロメロがそれぞれの映画に籠めた思いは、時代をこえて何度でも蘇ってくる。〉(P.35より)

(とみさわ昭仁)

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