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名場面だらけ! 合戦から見る『南北朝』時代のはじまり

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南北朝の戦いは、衰退した鎌倉幕府に対し、後醍醐天皇らが倒幕を画策するところから始まる。歴史の教科書的に見ると、「幕府を倒すと、後醍醐天皇や公家が建武の新政を開始。しかし、武士は不満を持ち、足利尊氏を中心に反旗を翻す。尊氏は北朝の天皇を立て、敗れた後醍醐天皇らは吉野に逃れて南朝政権を続けた」という表現になる。こういったまとめ方や、後の歴史を見ていると、終始、足利尊氏が率いる北朝方が有利だったように感じる。だが、実際はそこまで単純ではなく、世の趨勢はどちらに転んでもおかしくなかった。今回は、数々の合戦を紹介しながら、南北朝時代へと至った経緯を紐解いてみよう。

元弘の変から見る後醍醐天皇の倒幕計画! はじめは何と2度も失敗していた

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鎌倉幕府末期は、元寇以降の問題が山積みのままであり、御家人たち武士の不満は高まっていた。現政権の側にも多くの問題があったのだが、京の朝廷にも大問題があった。元寇の少し前の後嵯峨天皇以降、天皇家が持明院統と大覚寺統という二つの系統に分かれてしまい、交互に天皇を出し合うような状態になっていた。このような情勢下で即位した後醍醐天皇だったが、自身の後継者さえ選べず、、幕府を打倒し、天皇家を正しい形に戻そうという思いを強くし行動に移る。

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正中の変では実行前に計画が漏れ、一度失敗している。その後、再度倒幕準備を進める後醍醐天皇だが、1331(元弘元)年、なんと、天皇側近の吉田定房が倒幕計画を六波羅探題に密告するという事態が起こり、幕府が計画を知るところとなる。辛くも京を脱出した後醍醐天皇は大和に近い笠置山に移り挙兵する。楠木正成ら『悪党』の活躍もあったが、ここでも敗北し、幕府に捕まった後醍醐天皇は譲位させられ隠岐に流されてしまう。

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赤坂城の戦い
楠木正成が500人ほどの郎党を率いて籠城。これを囲んだ幕府軍だったが、丸太や落石という鎌倉武士の想定外の攻撃を受け、多数の死傷者を出す。だが、急ごしらえの戦のため、兵糧が不足し、正成は城を放棄して姿をくらます。

後醍醐天皇不在中も倒幕の戦いは続く

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後醍醐天皇は隠岐に流され、倒幕勢力は司令塔不在の状況となるかに見えた。しかし、吉野陥落後潜伏していた護良親王がいた。自身も山伏姿に身を変えて逃避行を続けた親王だが、その山伏らに幕府討滅の令旨(皇子などの命令書)を持たせて各地に派遣し、吉野に再び挙兵する。ほぼ同時に、死んだと思われていた楠木正成が赤坂城を再奪取。今度は赤坂城だけでなく、後方の千早城を詰城(本丸)として、これらの属する金剛山全体を要塞化し幕府軍を迎え撃ったのだ。

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千早城の戦い
楠木正成は赤坂城を再奪取すると、河内、和泉を押さえ、赤坂城を含む金剛山系を要塞化し、千早城が本丸となった。大木を落とし、藁人形を囮にして、敵軍に大石をぶつけるなど、変幻自在の戦術で幕府軍を翻弄した。

六波羅探題陥落から鎌倉幕府滅亡へ

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楠木正成が千早城で奮闘を続ける中、護良親王の令旨に応じて播磨の悪党赤松円心が挙兵する。この動きの中で隠岐に流されていた後醍醐天皇は名和長年らに助けられて島を脱出し、船上山で兵を挙げ幕府軍を迎え撃つ。これに対し幕府は切り札ともいえる戦力を投入する、それが足利尊氏だ。しかし、尊氏は倒幕側として京に迫る赤松円心や千種忠顕らと交戦に至っても、積極的には戦わない。尊氏は自領である丹波に着くと、4月29日、ついに、倒幕の姿勢を鮮明にする。足利尊氏というビッグネームの加入は、各地を鳴動させた。運命の急転直下に狼狽する幕府方の人々は、光厳天皇らとともに関東への逃亡を図り、5月7日には六波羅探題が陥落する。

鎌倉攻め&メインjpg

鎌倉攻め
六波羅探題陥落の翌日、新田義貞が上野で挙兵する。兵力は騎馬150騎程度、しかし、名門新田の下に関東の武家や尊氏の子、千寿王が合流すると「新田と足利が組んだ」というインパクトが駆け巡り、兵数は数万に膨れ上がっていく。一気に鎌倉へ至る義貞軍。しかし、鎌倉は武家の都であり、存在そのものが要塞だった。化粧坂、極楽寺坂といった侵入口を攻めるが、被害が増えるばかりとなる。けれども、極楽寺坂南西の稲村ケ崎に光明があった。波打ち際に干潮を利用した侵入口を見つけたのだ。義貞はここを通って市中へ突入。要塞都市、鎌倉を内側から打ち破った。ここに至っては、鎌倉幕府も命運が尽き150年に及ぶ歴史に幕が閉じたのだった。

足利尊氏、朝廷と敵対し反逆する

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ついに鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇は京に戻り、新政権を発足させる。翌年に建武と改元したため、建武の新政と呼ばれている。しかし、後醍醐天皇の側近(公家)重視の傾向は否めず、武士らの不満が出てくると尊氏の下に武士が集まってくるようになる。中先代の乱を経て鎌倉へ入った尊氏は朝廷の指示など待たずに恩賞を与え始める。これに怒った後醍醐天皇は、尊氏討伐軍を送り出す。ここにきて尊氏は朝廷との対決を決意し京都へ進軍する。

1336年京都に入った尊氏だが、思いもかけぬ軍と戦いを強いられる。遠い陸奥から駆け付けた北畠顕家だ。態勢を立て直した新田軍らと合流すると、京の尊氏に猛然と襲い掛かった。敗北の中、尊氏は崩れる軍をなんとかまとめ、足利勢力の強い丹波で立て直す。しかし、またも新田・北畠連合軍に敗れる。敗残の身で、遠い九州へ敗走することになる。

足利尊氏の反逆jpg

多々良浜の戦い
遠く九州まで落ち延びた尊氏だったが、多々良浜で起死回生の勝利を得て再起。尊氏はすぐに大宰府に進み、1か月ほどで九州をほぼ平定する。逆襲の大軍を編成し、京への途上につくのだった。

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湊川の戦い
九州で再起を図った尊氏が東上。湊川上流に楠木正成、下流の和田岬に新田義貞という布陣に、陸路から足利直義を中心とした軍が迫り、海路から足利尊氏が攻める。海路別動隊の細川定禅の動きで新田軍が東へ移動。楠木軍は孤立し殲滅された。新田軍はさらに戦うも敗走する。

湊川の戦いに勝った足利尊氏は、そのまま京へ進軍。新田義貞らは敗軍を立て直し、朝廷は比叡山に退いて抵抗する。千種忠顕、名和長年らも戦死するなど、損害は大きかったが、勝敗はなかなかつかない。ここで尊氏は天皇へ和睦の使者を送る。後醍醐天皇は密かにこれを受け入れ京へ入り三種の神器を尊氏側に渡す。朝廷は光厳上皇が院政を行い、光明天皇が即位する。この時点で後醍醐天皇は廃帝のはずだったのだが、すぐに京を脱出すると、「渡した三種の神器は偽物」と宣言し、吉野で朝廷を開いたのだ。京の北朝と、吉野の南朝が並立する南北朝時代は、ここからはじまることになる。

この後約60年間も天皇が二人という状況が続き、その権威を失墜させるが、だからといって将軍が強いわけでもない。そのような状況の長期化が、人々の権威に対する価値観も変化させ、後の応仁の乱、戦国時代にも影響することになるのだ。

●小和田 泰経(監修)
1972年東京都生まれ。歴史研究家、静岡英和学院大学講師。NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』に資料提供として参加。TV出演も多数。

(出典:『図解 南北朝争乱』、監修:小和田 泰経、CGイラスト:成瀬 京司、イラスト:あさい らんこ)

(ヤマダタケシ)

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